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ニュータイプ超能力者説③おまけ:『機動戦士Vガンダム』は何を描いた作品だったのか
この記事には関連記事として
ニュータイプ超能力者説①ファースト最終話のおさらい
ニュータイプ超能力者説②ニュータイプとサイキッカー
ニュータイプ超能力者説④おまけのおまけ:カテジナ・ルースは父性に飢えていたか?
があります。できれば全部読んで欲しいです。
今回のニュータイプ論とは関係ないが『機動戦士Vガンダム』については初代と違いあまり語られることが少ないように思う。いい機会だから少し語ってみたいと思う。
まずウッソ・エヴィンという少年の生い立ちについて。彼はカサレリアという山間に住む不法居住者の一人である。彼は若干13歳にもかかわらず両親から放任されて家に一人で住んでいる。彼の父親ハンゲルグ・エヴィンは宇宙引越公社に勤めていたが、ザンスカール帝国の動きがきな臭くなってくるとリガ・ミリティアというゲリラ組織を作り、連邦軍兵士に共戦交渉するようになる。母親のミューラ・ミゲルの方はモビルスーツ技術者であり、後にリガ・ミリティアのためにV2ガンダムという機体を作り出すことになる。彼らは自分たちの子供がニュータイプになると啓示を受けたという設定で、ゲリラの中枢となりうるだけの能力を身につけさせるための厳しい教育を行ってきた。そんな彼らが息子の元を離れたのはザンスカールが動き始めたため、子供にかまっている余裕がなくなったからであろう。ともあれ、ウッソは両親から己の優秀さを示すことを求められ続け、最後には放任されてしまったのである。
そういう子供に対して厳しさを押し付ける態度は基本的に父親が取りやすい行動であり、いわば彼らの両親はウッソに対して父性をもって接してきたといえるだろう。放任というのも子供の自立性に任せるということであり、これもある種の父性とみなせるだろう。つまりウッソは父性ばかりを与えられ続けたために母性に飢えている存在だと考えられるのである。
さて『Vガン』において敵となるのがザンスカール帝国とその軍隊であるベスパのイエロージャケットである。ザンスカールは女王マリアの元でマリア主義を掲げており、これは母親が実権をもつ社会こそが理想だとするものである。彼らの目標はまず地球を綺麗にすること、そして地球上の人類から闘争本能を奪い争いをなくすことである。これは母性という優しさだけが支配する世界を作ろうとしているとみなすことが出来るだろう。つまりは物語スタート時のウッソ・エヴィンとザンスカール帝国は父性と母性という真逆の要素を持っているのである。
さて父性のみで育てられたウッソはそれゆえに屈折したマザーコンプレックスを持つと考えられ、彼は他者に理想の母親を求める事になる。例えば物語開始時においてウッソは近くの街ウーイッグに住む年上の美女カテジナ・ルースに憧れ、写真を盗撮したり、勝手にメールを送り付けたりしていた。このストーカーじみた好意も彼が母性に飢えているからと考えられる。だがウッソはリガ・ミリティアに参加するようになって年上の女性と沢山接し、時には甘えさせてもらうこともあった。つまりは彼はマーベットやシュラク隊などと接していくうちに十分な母性を与えられ、母性と父性のバランスがとれた存在になっていくのである。そして最後にウッソの前に立ちはだかる敵は初恋の女性であるカテジナであり、いわば彼は自身の屈折したマザーコンプレックスの象徴を倒すことで完成した人間になるというわけである。
なおヒロイン枠のシャクティ・カリンがウッソより年下の11歳なのは、彼女では母性の補填ができない状況にしてないとメインテーマが描けなくなってしまうからであり、年上の女性がヒロインだとマザーコンプレックスの克服が示せなくなってしまうからだと考えられる。
ここで話をザンスカール帝国の決戦兵器エンジェル・ハイロゥに移したい。これは二万人のサイキッカーのサイコウェーブを増幅し地球に届けることで人類から闘争本能を奪おうとするものである。だがエンジェル・ハイロゥが本格起動するとサイコウェーブを受けた地球上の生物は全て無気力になってしまい、動きを止めてしまうことになった。つまり人間だけでなくすべての生き物にとって闘争本能は必要不可欠なものであり、そういう自然の厳しさのようなものをなくしてはならなかったということである。つまりは人間にとって母性的な優しさと父性的な厳しさはどちらも必要なものであり、偏りを持たせること自体がいけないことだということを表していると言える。これは先に示した母性に飢えていたウッソが母性を十分に与えられることで更生する展開と同じことを意味しており、そこから考えると『Vガン』のメインテーマは「母性と父性のバランスの大切さ」であると言えるだろう。
なお富野由悠季監督は『ガンダム』以降、人類がニュータイプへ進化するためには地球を捨て宇宙に出なければならない事を描いていたが今作では「ニュータイプは地球から生まれる」と主張が変わってきており、そこから考えると宇宙だけでなく地球もまた人類の進化には必要なものだと考えることが出来る。地球を優しさや母性と捉えるのなら宇宙は厳しさや父性とみなすことが可能であり、つまりはニュータイプへの進化もまた母性と父性のバランスが重要だということになるのである。
ここからは余談になる。
今回『Vガン』を見返してみて気づいたことはいくつかあるが、まずザンスカール帝国には輪や円形をしめす象徴が多いことを挙げたい。エンジェル・ハイロゥやバイク戦艦のタイヤ、MSの武装としてのタイヤ、ファラ・グリフォンの操るザンネック・キャノンのリング状の発光やフットベース、そしてゾロアットのビームローターも円形とみなすことが出来る。これはエンジェル・ハイロゥを見る限り天使の輪を象徴していると考えられる。悪役に天使の象徴を用いるだけでも興味深いのだが、V2ガンダムのビームウイングはいわば天使の翼である。つまり敵と味方どちらにも天使象徴が用いられていることになるわけである。一見解釈が難しそうに見えるが、この天使の輪と翼の差異もまた母性と父性を持ち出すと簡単に説明が可能になる。天使の輪は一方的に相手に光を届けるものであり、いわば優しさ、母性である。だが翼は前や上空に自分で飛んで行くためのものであり、神の使いの天使ですら自分で進んでいかなければならないという厳しさ、つまりは父性を表していると考えれるのである。
あと多用されている攻撃方法としてウッソによるモビルスーツのパーツを敵にぶつける行為がある。一般的にロボットアニメにおいてロボットはパイロットの分身的な存在として表現されるものであり、そこから考えるとパーツ特攻は自分の体の一部を失う行為であるとみなせる。つまりは痛みを伴う攻撃であり、自身に痛みを強いることは厳しさを意味するわけでこれは父性を意味する。健全な女性パイロットの多いリガ・ミリティアには十二分の母性が存在するがゆえ、この手の特攻攻撃を使っても母性と父性のバランスは崩れない。もちろんシュラク隊が次々に死んでいくことによって主人公のそばからその分母性が減っていくのであるが、そのあたりでマーベットの妊娠が発覚し、一気に母性が充填される展開になっている。
次に血縁と開発者について。『ガンダム』では主人公の父親が主役機を開発し、『Ζ』でも最初に主人公が乗る機体は父親が開発したものであった。だが今回『Vガン』においては主人公が後半で乗る機体は母親が開発したものになっている。まず『ガンダム』と『Ζ』の場合は機体と主人公の因縁を示すことで軍人でもない主人公がモビルスーツに乗る展開を受け入れやすいものにする効果を狙っていると考えられるが、『Vガン』の場合は前半の主役機であるヴィクトリーガンダムは母親が関わっているわけではなかった。なぜヴィクトリーも母親が作ったことにしなかったのかは不明だが、父親でなく母親が作った機体に乗り込むことは母体に子供が回帰することを意味する。つまりはこれもウッソが母性を補填するための要素といえるのである。なお庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』にて母親の魂の宿った機体を主役機とする展開を描いたのはおそらくは『Vガン』の影響によるものだろう。ちなみに『Vガン』最終話においては最後にカサレリアでV2などに雪が積もっている場面を描くことでモビルスーツが熱を持っていないこと、つまりはウッソたちがモビルスーツを使っていない…必要としなくなったことを示すことで、彼らの自立を示している。ファーストガンダムに比べると明瞭さは欠けるが、主人公がメカに依存しなくなることを描くことは共通しているといえるだろう。
あとエンジェル・ハイロゥの鈴の音は赤ん坊をあやすベッドメリーを意識していると考えられるが、ファラ・グリフォンの放つ鈴の音はそれとは違う表現であろう。作中では処刑人の家系が外出時に鈴を身につけるのが決まりだったとしているが、ネットで調べてもそういう話は出てこない。これは富野監督の創作か、あるいはギロチンで有名なサンソンの家の紋章が鈴だったことが捻じ曲げて書かれた書物が僅かながら存在し、それを参考にしたかのどちらかと考えられる。同じ鈴の音でも母性と暴力性で大きく意味が違うことを示し、同じものでも解釈によって意味が違ってくることを表したかったのかもしれない。
最後にザンスカール帝国の矛盾について。ザンスカール帝国は母性の大切さを訴えながら、ザンスカール帝国の地球クリーン作戦は巨大なタイヤがついたバイク戦艦によって都市を踏み潰して平地に戻し一度リセットするという極めて暴力的な手段を持ち出している。さらに言えばザンスカール帝国は反逆者を見せしめにギロチンで公開処刑にする恐怖政治をしており、理想と実際の行動が極めてかけ離れていると言えるだろう。そもそもザンスカール帝国の女王マリアは傀儡であり、実権は男性である宰相フォンセ・カガチが握っている。つまりは母性による争いのない社会を目指すというのは表面的なものであって、本質は男性的な暴力が支配するのがザンスカールであるといえるだろう。この矛盾はザンスカールを悪役として描かなければなかない以上は必要な物だったのだろうが、物語の主題の母性と父性のバランスという面からみて大きな矛盾を孕んでいる。そう考えると『Vガン』も富野監督も完璧な存在ではないと言えるだろう。
ニュータイプ超能力者説①ファースト最終話のおさらい
ニュータイプ超能力者説②ニュータイプとサイキッカー
ニュータイプ超能力者説④おまけのおまけ:カテジナ・ルースは父性に飢えていたか?
があります。できれば全部読んで欲しいです。
今回のニュータイプ論とは関係ないが『機動戦士Vガンダム』については初代と違いあまり語られることが少ないように思う。いい機会だから少し語ってみたいと思う。
まずウッソ・エヴィンという少年の生い立ちについて。彼はカサレリアという山間に住む不法居住者の一人である。彼は若干13歳にもかかわらず両親から放任されて家に一人で住んでいる。彼の父親ハンゲルグ・エヴィンは宇宙引越公社に勤めていたが、ザンスカール帝国の動きがきな臭くなってくるとリガ・ミリティアというゲリラ組織を作り、連邦軍兵士に共戦交渉するようになる。母親のミューラ・ミゲルの方はモビルスーツ技術者であり、後にリガ・ミリティアのためにV2ガンダムという機体を作り出すことになる。彼らは自分たちの子供がニュータイプになると啓示を受けたという設定で、ゲリラの中枢となりうるだけの能力を身につけさせるための厳しい教育を行ってきた。そんな彼らが息子の元を離れたのはザンスカールが動き始めたため、子供にかまっている余裕がなくなったからであろう。ともあれ、ウッソは両親から己の優秀さを示すことを求められ続け、最後には放任されてしまったのである。
そういう子供に対して厳しさを押し付ける態度は基本的に父親が取りやすい行動であり、いわば彼らの両親はウッソに対して父性をもって接してきたといえるだろう。放任というのも子供の自立性に任せるということであり、これもある種の父性とみなせるだろう。つまりウッソは父性ばかりを与えられ続けたために母性に飢えている存在だと考えられるのである。
さて『Vガン』において敵となるのがザンスカール帝国とその軍隊であるベスパのイエロージャケットである。ザンスカールは女王マリアの元でマリア主義を掲げており、これは母親が実権をもつ社会こそが理想だとするものである。彼らの目標はまず地球を綺麗にすること、そして地球上の人類から闘争本能を奪い争いをなくすことである。これは母性という優しさだけが支配する世界を作ろうとしているとみなすことが出来るだろう。つまりは物語スタート時のウッソ・エヴィンとザンスカール帝国は父性と母性という真逆の要素を持っているのである。
さて父性のみで育てられたウッソはそれゆえに屈折したマザーコンプレックスを持つと考えられ、彼は他者に理想の母親を求める事になる。例えば物語開始時においてウッソは近くの街ウーイッグに住む年上の美女カテジナ・ルースに憧れ、写真を盗撮したり、勝手にメールを送り付けたりしていた。このストーカーじみた好意も彼が母性に飢えているからと考えられる。だがウッソはリガ・ミリティアに参加するようになって年上の女性と沢山接し、時には甘えさせてもらうこともあった。つまりは彼はマーベットやシュラク隊などと接していくうちに十分な母性を与えられ、母性と父性のバランスがとれた存在になっていくのである。そして最後にウッソの前に立ちはだかる敵は初恋の女性であるカテジナであり、いわば彼は自身の屈折したマザーコンプレックスの象徴を倒すことで完成した人間になるというわけである。
なおヒロイン枠のシャクティ・カリンがウッソより年下の11歳なのは、彼女では母性の補填ができない状況にしてないとメインテーマが描けなくなってしまうからであり、年上の女性がヒロインだとマザーコンプレックスの克服が示せなくなってしまうからだと考えられる。
ここで話をザンスカール帝国の決戦兵器エンジェル・ハイロゥに移したい。これは二万人のサイキッカーのサイコウェーブを増幅し地球に届けることで人類から闘争本能を奪おうとするものである。だがエンジェル・ハイロゥが本格起動するとサイコウェーブを受けた地球上の生物は全て無気力になってしまい、動きを止めてしまうことになった。つまり人間だけでなくすべての生き物にとって闘争本能は必要不可欠なものであり、そういう自然の厳しさのようなものをなくしてはならなかったということである。つまりは人間にとって母性的な優しさと父性的な厳しさはどちらも必要なものであり、偏りを持たせること自体がいけないことだということを表していると言える。これは先に示した母性に飢えていたウッソが母性を十分に与えられることで更生する展開と同じことを意味しており、そこから考えると『Vガン』のメインテーマは「母性と父性のバランスの大切さ」であると言えるだろう。
なお富野由悠季監督は『ガンダム』以降、人類がニュータイプへ進化するためには地球を捨て宇宙に出なければならない事を描いていたが今作では「ニュータイプは地球から生まれる」と主張が変わってきており、そこから考えると宇宙だけでなく地球もまた人類の進化には必要なものだと考えることが出来る。地球を優しさや母性と捉えるのなら宇宙は厳しさや父性とみなすことが可能であり、つまりはニュータイプへの進化もまた母性と父性のバランスが重要だということになるのである。
ここからは余談になる。
今回『Vガン』を見返してみて気づいたことはいくつかあるが、まずザンスカール帝国には輪や円形をしめす象徴が多いことを挙げたい。エンジェル・ハイロゥやバイク戦艦のタイヤ、MSの武装としてのタイヤ、ファラ・グリフォンの操るザンネック・キャノンのリング状の発光やフットベース、そしてゾロアットのビームローターも円形とみなすことが出来る。これはエンジェル・ハイロゥを見る限り天使の輪を象徴していると考えられる。悪役に天使の象徴を用いるだけでも興味深いのだが、V2ガンダムのビームウイングはいわば天使の翼である。つまり敵と味方どちらにも天使象徴が用いられていることになるわけである。一見解釈が難しそうに見えるが、この天使の輪と翼の差異もまた母性と父性を持ち出すと簡単に説明が可能になる。天使の輪は一方的に相手に光を届けるものであり、いわば優しさ、母性である。だが翼は前や上空に自分で飛んで行くためのものであり、神の使いの天使ですら自分で進んでいかなければならないという厳しさ、つまりは父性を表していると考えれるのである。
あと多用されている攻撃方法としてウッソによるモビルスーツのパーツを敵にぶつける行為がある。一般的にロボットアニメにおいてロボットはパイロットの分身的な存在として表現されるものであり、そこから考えるとパーツ特攻は自分の体の一部を失う行為であるとみなせる。つまりは痛みを伴う攻撃であり、自身に痛みを強いることは厳しさを意味するわけでこれは父性を意味する。健全な女性パイロットの多いリガ・ミリティアには十二分の母性が存在するがゆえ、この手の特攻攻撃を使っても母性と父性のバランスは崩れない。もちろんシュラク隊が次々に死んでいくことによって主人公のそばからその分母性が減っていくのであるが、そのあたりでマーベットの妊娠が発覚し、一気に母性が充填される展開になっている。
次に血縁と開発者について。『ガンダム』では主人公の父親が主役機を開発し、『Ζ』でも最初に主人公が乗る機体は父親が開発したものであった。だが今回『Vガン』においては主人公が後半で乗る機体は母親が開発したものになっている。まず『ガンダム』と『Ζ』の場合は機体と主人公の因縁を示すことで軍人でもない主人公がモビルスーツに乗る展開を受け入れやすいものにする効果を狙っていると考えられるが、『Vガン』の場合は前半の主役機であるヴィクトリーガンダムは母親が関わっているわけではなかった。なぜヴィクトリーも母親が作ったことにしなかったのかは不明だが、父親でなく母親が作った機体に乗り込むことは母体に子供が回帰することを意味する。つまりはこれもウッソが母性を補填するための要素といえるのである。なお庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』にて母親の魂の宿った機体を主役機とする展開を描いたのはおそらくは『Vガン』の影響によるものだろう。ちなみに『Vガン』最終話においては最後にカサレリアでV2などに雪が積もっている場面を描くことでモビルスーツが熱を持っていないこと、つまりはウッソたちがモビルスーツを使っていない…必要としなくなったことを示すことで、彼らの自立を示している。ファーストガンダムに比べると明瞭さは欠けるが、主人公がメカに依存しなくなることを描くことは共通しているといえるだろう。
あとエンジェル・ハイロゥの鈴の音は赤ん坊をあやすベッドメリーを意識していると考えられるが、ファラ・グリフォンの放つ鈴の音はそれとは違う表現であろう。作中では処刑人の家系が外出時に鈴を身につけるのが決まりだったとしているが、ネットで調べてもそういう話は出てこない。これは富野監督の創作か、あるいはギロチンで有名なサンソンの家の紋章が鈴だったことが捻じ曲げて書かれた書物が僅かながら存在し、それを参考にしたかのどちらかと考えられる。同じ鈴の音でも母性と暴力性で大きく意味が違うことを示し、同じものでも解釈によって意味が違ってくることを表したかったのかもしれない。
最後にザンスカール帝国の矛盾について。ザンスカール帝国は母性の大切さを訴えながら、ザンスカール帝国の地球クリーン作戦は巨大なタイヤがついたバイク戦艦によって都市を踏み潰して平地に戻し一度リセットするという極めて暴力的な手段を持ち出している。さらに言えばザンスカール帝国は反逆者を見せしめにギロチンで公開処刑にする恐怖政治をしており、理想と実際の行動が極めてかけ離れていると言えるだろう。そもそもザンスカール帝国の女王マリアは傀儡であり、実権は男性である宰相フォンセ・カガチが握っている。つまりは母性による争いのない社会を目指すというのは表面的なものであって、本質は男性的な暴力が支配するのがザンスカールであるといえるだろう。この矛盾はザンスカールを悪役として描かなければなかない以上は必要な物だったのだろうが、物語の主題の母性と父性のバランスという面からみて大きな矛盾を孕んでいる。そう考えると『Vガン』も富野監督も完璧な存在ではないと言えるだろう。
テーマ : 機動戦士ガンダムシリーズ - ジャンル : アニメ・コミック