NEWTYPE-X1におけるF5F6F7の書き込みについて
で、トラック番号やセクタ番号にこの3つの値を含めると、uPD765ではそういうフォーマットができるけれど、MB8877では作れない。つまりコピーできない。F5F6F7は当時の8bitパソコンのキャラクタコードで「時分秒」に相当するので、通称「時分秒プロテクト」と呼ばれた。
したがって当時のコピープロテクトはMB8877では書けるけどuPD765では書けないフォーマットと、その逆の時分秒プロテクトを組み合わせるのが定番だった。これならどっちのパソコンでもコピーできない。
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両者の方式は異なるが、一番のポイントは同じ。実はMB8877自体にはディスクのサイド(表裏)を切り替える機能がなく、別途簡単な回路を組んで実現されていた。つまりFDCのコントロールの外でCPUが直接切り替えられる。FDCがTrack Writeでデータを書いている途中で無理矢理サイドを切り替えると、データは途中までしか書かれない。さすがにディスクドライブ側に保護回路があって裏面に続きが書かれるということはなかったようだ。
F5を書きたかったらそれに近いビットパターンを持つデータを書けとFDCに指令しておいて、FDCがそのデータを書いている最中にサイドを切り替えてしまう。ビットが1の状態というのは磁性体の磁気が反転している場所だから、反転させなければいいという理屈。つまりF5よりも余分なビットが1のデータを書かせておいて、そのビットを書いている時だけサイドを切り替えて、そのビットを書かせない。
上記のようにそのサイトでは「NEWTYPE-X1」などがライトトラック時にF5F6F7に書き込みを実現する方法は途中で書き込むディスクの面を強制的に変更するやり方だと記されている。その場合どういうことになるかというと、書き込みを切り替えてしまった場合、それ以前の段階で書き込まれているデータのビットがそのまま残ることになる。一見これで実現できると思ってしまう人もいるだろう。だがフロッピーディスクの回転というのは非常に不安定なものであって、完全に同じタイミングで書き込むことはまずできない。1ビットたりともデータがずれず同じタイミングというのはある種奇跡に近いのかもしれない。つまり途中で書き込み面を切り替えてしまったら、その部分はちゃんと読み込めない異常なデータになってしまう可能性が高いのだ。もしサイド切り替えでちゃんとしたデータが書き込めるというならサイド切り替えを行った場合にはデータの書き込みが行われないというのではなく、本来書き込まれるはずだった反転データが非反転データの書き込みになってしまうという説明でなければならない筈。
さてでは「NEWTYPE-X1」はどうやってライトトラック時にF5F6F7を書き込むのだろうか。これについては実は当方なりの推測があったりする。いい機会だから初公表してみたい。なお記憶だけで書いており資料を調べ直したりはしてないのでなにかしら記憶違いがあるかもしれない。その辺は注意してほしい。
「NEWTYPE-X1Ver1.0」発売後、どうやって件のコピーツールがF5F6F7を書き込んでいるのだろうと考えつつFDCの資料(CQ出版のパソコン周辺LSI規格表)を読んでいたらちょっと気になる注意書きを見つけた。「FDCがREADYになってない状態でデータ書き込みをしてはいけない」というものである。つまりおそらくはWD179X互換のFDCはチップがBUSY状態であるかどうかにか変わらずデータポートに書き込みがあった場合、そのデータをラッチしてしまうということだろう。この場合のラッチというのはデータバスに出力されているデータをチップ内に取り込むことである。当然ながら本来はBUSY中はデータを取り込まないような設計をするのが理想なのではあるが昔はこの手のハード設計のちょっとした手抜きというのは多々存在したのだ。少しでもチップ設計や量産のコストを押さえるためには些細な手抜きが重要だった時代なのである。
さてFDCがPCから渡されたデータを書き込み中に次のデータに差し替えられた場合どうなるか。当然そのデータは正常には書き込めない。差し替えられたタイミングからそれ以降のビットは新しいデータになってしまうだろう。ならばライトトラック時にデータの途中差し替えを行ったらどうなるのだろうか。そう、事前にF5F6F7と似たデータを用意しておき途中で本物のF5F6F7とすり替えることによりライトトラック時のF5F6F7チェックをすり抜けることが出来る筈なのである。
「NEWTYPE-X1Ver3.0A」のマニュアルに記述されていた内部データ構造解説を読んだときの記憶によればF5F6F7はライトトラック用内部データにおいてはB5F5、B6F6、B7F7で表現されている。ちなみに本来のB5B6B7はB5B5のように同じものを2回で表すことになっている。つまり上から二つ目のビットのd6だけが違うデータから本来のデータに差し替えるのだろう。FDCのデータ書き込みが最下位ビットd0からなのか再上位ビットd7からなのかはよく知らないがおそらくは最上位ビットからだろう。そのほうが自然だし。つまりは1ビット分最上位ビットだけ書き込まれてる間にデータを差し替えていると思われる。B5、B6、B7と3タイプにわざわざ分類してあるのはB5B7B7直後にくるデータと一度コンペアするだけで本物のB5B6B7かの判定が済むようにしているためと思われる。そういう訳で「NEWTYPE-X1」の内部データ構造でもデータの差し替えを意識した構造になっているのは事実である。ちなみに件のサイトのサイド切り替えによるビット反転の抑制という説明ではこのデータ構造の説明はできない。非反転データから反転データという並び方は反転の抑制という観点からは非効率であるからだ。
というわけで当方の仮説では「MB8877などのWD179X互換FDCでのライトトラック時のF5F6F7書き込みは書き込み面切替での実現は困難。FDCの常時データラッチという特性を使って書き込みデータの途中差し替えで実現してるはず」になります。
念のため言っておきますが当方は別にプロテクトの専門家でもなればハッカーでもないただの元コピー厨です。上記の推察に間違いがあっても一切責任を負いません。あしからず。むしろおかしい点があったらどんどん指摘してください。
ちなみに「NEWTYPE-X1」の前身たる「I LOVE X1」の最終バージョンでもF5F6F7をライトトラック時に書き込めるタイプのディスクコピーが可能だったりしますが、こちらは「NEWTYPE-X1」の高安定性とは異なり、結構な頻度でベリファイエラーを起こします。もしかしたらこちらの方は書き込みサイド切り替えを行っていたという可能性も万に一つくらいはあるかも。
ちなみに記事中で「時分秒」という表現をつかってないのはX1ではF5F6F7は違うキャラクタコードだからです。X1ではF5から順に「火月日時分秒」となっており綺麗にずれてたりします。X1はFMやNECとは違うんだというメッセージ性を感じたり感じなかったりします(笑)。
宗教とは時代遅れのライフハックである
だが人間の理解力には限界がある。その人にはどうしても愛せない人だっているのだ。すべての人間と友達になれる人間などいない。仮に愛せたとしても相手も同じように愛してくれるとは限らない。もちろん隣人と愛し合えればそれが一番いいに越したことはないが、現実問題絶対にそうしなければならないわけでもない。つまり、『汝、隣人をできるだけ愛せよ』というのが正解であり、『汝、隣人を愛せよ』ではライフハックとしては不十分なのだ。
確かにキリスト教が生まれたのは2千年前であり、ライフハックとして不十分でも仕方がないとも言える。いやむしろ当時としては驚異的に先進的なライフハックであっただろう。今となっては時代遅れだとしても当時の人たちには感動をもって受け入れられたに違いない。問題は宗教が持つライフハックがアップデートされないという点にある。
言うまでもないが、義務教育が一般化したのは近代以降のことである。つまりそれ以前の段階では多くの人が論理的な思考というものを育てる機会を持てないまま一生を終えていた。そういう論理的思考のできない人はどうやってライフハックの正しさを検証するのであろうか。これに対し『偉い学者さんがそういってかどうかで決める』というやり方を上げる人は多いだろう。ではその偉い学者よりも上の立場にいる人間の発言ならもっと信用できるのではないだろうか。たとえばその偉い学者を召し抱えている王様とか。ではその王様より上にいるものなら?つまりライフハックの信用度をあげるには神様を持ち出すのが一番なのだ。
つまり、宗教者が語るライフハックはそのままでは信用されず、ゆえに宗教というのはそのバックグランドに神話をもつ必要がある。そうしてはじめて宗教のもつライフハックは学のない一般人に受け入れられるものとなる。『神様(もしくは代理人)がそういってるならそれは正しいに違いない』と。
だがひと度神様を持ち出すとそのライフハックは以後更新不可能になってしまう。神様は間違いを起こさないという前提があってこそ宗教の信頼性は保証されているのからだ。アップデートなどしたら宗教の大前提は覆されてしまう。もちろん教義の解釈違いによる宗派の分裂というものもあるが、教義そのものを変えれない以上限界はある。
さてここで話を現代に移そう。今では誰でも義務教育を受けることになっている。つまり論理的思考力を育てる機会は十分にあるということである。誰かが語ったライフハックが論理的に不十分なら別の誰かがアップデートする。そういうことが可能なのが現代なのだ。つまり現代においてはライフハックの正当性の保証は論理によってなされるべきものであり、神話によっての保証では不十分、つまり宗教は既に時代遅れのものでしかなくて、それを盲目的に信じることは愚か者の諸行であろう。
別に当方は今宗教を信じている人に信仰を捨てろと言う気はない。『三つ子の魂百まで』という言葉があるように。幼い頃に身に付けた価値観は死ぬまで変えれないことが多い。子供の頃から持っている信仰をすてることなど出来なくて当然である。ただ理解すべきはその信仰は自分の愚かしさの表れであり、当然人に押し付けるべきものではないということである。念のためいっておくが、愚かであると言うこと…劣っている事は別に罪ではなく、その事実を自覚できない場合に限る。そう当方は信じている。(これについてはこちらを参照)だが現実問題、熱心な宗教者は多くの場合にて自分の愚かさを自覚できず、むしろ宗教を信じない者を愚か者呼ばわりすることが多いように思う。宗教者は己の愚かさを自覚し、その信仰を広めようとせずに自自分の代で途絶えさせることを考えるべきである。
けいおんがヒットした本当の理由(改定版)
まず理解してほしいのは娯楽産業というのは例外なくスキマ産業であるということである。すでに埋まってしまった隙間を狙ったとしてもその作品は商業的に大して成功できない。隙間が十分にあいていることが成功の前提条件なのだ。魔法少女まどか☆マギカの場合なら、もしその直前にシリアスでダークな魔法少女作品が産まれていればあそこまでの大ヒットにはならなかっただろう。つまり方向性や構成要素においてユーザーに満たされていない部分が存在し、そこを埋める作品を提供することが商業的成功には必要なのである。たとえばパンチラすら殆どなくなってしまったTVアニメにおいてひたすらパンツを映し続ければそれは大きなスキマ狙いとして成立するし、会話劇を行うのが難しいはずのアニメにおいて面白い会話劇をやりつつちゃんとアニメとして成立させればそれもまた大きなスキマとして成立する。
もちろん今までにない高い完成度という類いのモノもスキマとして成立する。だが受け手次第で曖昧に変わってしまうような要素では大きなスキマとしては成立し得ない。ゆえにそれだけでは到底大ヒットには到達しない。大ヒットした作品には誰の目にも明らかな大きなスキマが存在するはずである。
ではけいおんが埋めた大きなスキマとはどういうものであろうか。まず考えられるのがガールズバンドものという部分である。たしかにこれもスキマではあるが、それを求めている人がそれほど多いとも思えない。それでは小ヒットの理由説明程度にしかならないだろう。祖例外にもっと大きな理由があるはずだ。次にけいおんのアニメ制作を行った京都アニメーションのブランド効果について考えてみる。だが、これだといわゆる京アニ制作の鍵系…AIR、Kanon、CLANNADを下回るレベルのヒットまでの理由付けにしかならず、これもまたちゃんとした説明には至らない。
ここで少し目線を変えて音楽系タイアップと言う側面から見てみよう。たしかにけいおんは十分にレベルの高い楽曲をオープニングやーエンディング含めて提供してるとは思う。だがマクロスF(フロンティア)等でもその程度の事は行われているのも事実。これもまた大ヒットの説明としては少々不十分であるかのように感じる。
だが実のところ、けいおんとマクロスFの楽曲には大きな違いが存在する。それは歌い手がプロと言う設定があるか否かである。シェリル・ノームはトップアーティストのシンガーソングライターであり、ランカ・リーはそのシェリルに追い付き追い越そうとする新人歌手である。シェリルは作詞作曲を自分で行っているが演奏はしておらず、ランカにいたっては作詞作曲演奏すべて他人…専門のプロが行っているという設定である。けいおんのような素人楽曲とは違うのだ。実際の音楽性レベルにそれほど大きな違いがあるとも思えないが。 (シェリルの場合、歌ってるのは声優ではなく専門のシンガーという違いもあるがとりあえず今回は無視させてもらいたい)
そう、けいおんにおいて放課後ティータイムが作詞作曲演奏し歌う楽曲はプロレベルなのである。当然ながら彼女たちの作中設定は素人でしかない。しかも普段から怠けてばかりでまともに練習すらできないダメ人間である。そんな彼女たちがいざ演奏するとプロレベルのモノを披露するのだ。
当然ながら反論もあるだろう。『放課後ティータイムの楽曲は歌はともかく作詞作曲演奏は実際にはプロのしごとじゃん』と。そういうふうにとらえてしまう人はこれによるカタルシスを得ることができない。(いや当方もその類いの人間なのであるが。)実際、けいおんの楽曲は本編において本当に彼女たちが作ったものであると明確に受け止めているファンも少しはいるようだ。そして意識的にそう受け止めているファンはそれほど多くなくとも、潜在意識上ではそう受け止めている人は結構多そうである。以降けいおんファンは意識的あるいは無意識レベルにてけいおんの楽曲は素人の女子高生が作ったものと受け止めていると仮定して話を進める。
普段はダメ人間であるがいざという時にバシッとかっこよくキメて受け手にカタルシスを与える展開。これは昔からの物語としての王道のひとつであろう。銀魂は徹底してこの王道にこだわってるように思える。GTOもその路線であろう。シティハンターも冴羽獠のダメな部分を強調して描写しておき最後にキメるパターンの話が多いと思う。そしてミルキィホームズもこのタイプに分類できる。TIGER&BUNNYの鏑木T虎徹もそのダメ人間を注意して描れていたように思う。おそらく考えていけば他にも同じタイプの作品事例は多数出てくるであろう。
だがこの王道、実は部活モノで実装し続けるのは極めて困難なのである。たとえばコンテストなどで結果を残してしまえば、その段階でもうその周りはその人をダメ人間と呼べなくなってしまう。特にスポーツものでは結果を出さずにカタルシスを演出するのは困難であろう。逆に文化系でコンテストすらない場合だと、いざというとき自体が殆どないことになってしまいこれもカタルシスを表現しにくい。さらにいえば結果を残すために努力し続けてもダメ人間度は大幅に下がってしまう…努力をずっと続けることはそれだけでも十分に困難な事なのだから。
かつてネット上において、けいおんにはもっと努力描写が必要だとする人が当方も含め多数出現していたが、もしけいおんが彼らの言う通りにちゃんとした努力描写をいれてしまってたら、そのダメ人間カタルシス構造は破壊されてしまったであろう。もちろん長い努力が報われると言うタイプのカタルシスも物語には存在するのではあるが、努力が報われるまでのあいだ中ずっと受け手にストレスを与えることになりかねない。そういうタイプの作品で大ヒットを出すこともまた別のベクトルで困難なのだ。
さて、先にあげたダメ人間カタルシス作品は実はすべてバトルものか人助けものである。バトルものの場合、主人公が人知れず激しい戦いをしているのであれば、その戦いの結果がどうだとかは世間の知るところではなく、受け手にカタルシスを与えつつダメ人間のレッテルを長いこと貼り続ける事も両立できる。実はバトルものとダメ人間カタルシスは非常に相性が良いのだ。人助けものもしかり、助けられた相手以外にそのことを知り得ないならばその人助けで世間の評価が上がったりしないのだから。つまり人助けものもまたダメ人間カタルシスと相性がいいということである。ただこれらのように相性が良い場合であってもただひたすらにダメ人間カタルシス構造を続けていくと『この主人公は定期的に決めるべき時に決めれるキャラなのだから、ダメ人間扱いする世間の方がおかしすぎる』という意識が受け手に生まれることとなり、最終的にはカタルシス構造を維持できなくなってしまう。
だが、けいおんという作品では劇中でカタルシス構造を出さなくても、毎回のオープニング、エンディングで彼女たちは十分かっこよく決めている。つまりは物語の外側だけでもそのカタルシス構造が成立してしまうのだ。ゆえにけいおんでは他のどんな作品よりも長くそのカタルシス構造の維持が可能である。おそらくこれは前代未聞の事例であろう。正直この特殊構造を他の作品に実装することも困難だろう。けいおんというのはとてつもなく斬新な作品だったのだ。そして当然ながらこの構造はTVアニメになったことではじめて成立するものである。この原作漫画をアニメにしたことは快挙としか言いようがない。
だが実際問題、アニメスタッフ関係者もこの構造を理解していないと思われる。もし彼らが本当にこのけいおんの特殊性を正しく理解していれば、永遠に高校生を続けるサザエさん時空にして骨までしゃぶりつくそうとしたであろう。『こんな特殊な作品は2度と生まれないかもしれない』とか言いながら。ずっと続くことがけいおんという作品にとって幸福なのかどうかは知らないが。
ここで一旦話を戻す。先に述べたようにけいおんの主人公たちは努力できないダメ人間である。だが作中で彼らのダメ人間っぷりを否定するものは誰もいない。通常ダメ人間カタルシス構造を持つ作品は主人公がダメ人間であることを強調するために誰かしらかにダメさを否定されるものである。美味しんぼの山岡士郎は少なくとも初期の段階ではグータラ社員呼ばわりされてたし、1ポンドの福音の畑中耕作も回りから根性なしとみなされている。けいおんのように誰からも否定されないのは極めて異例なことなのだ。おそらくこれもまた前例はない可能性が高い。
つまりはけいおんというのはダメ人間にとって誰からも否定されない楽園なのだ。
いや、より正確に言えばバンドの一員である澪や梓は当初ちゃんと練習しないことを否定していたのだが、やがて唯たちに毒されたのか全く否定しないようになってしまう。これは最初からずっと否定するものが全くいないのとは大きく異なる。今まで一人も否定するものがいなかったと言う場合はそれがたまたまであり、これから現れるかもしれないということになる。だが一度は否定していたものが肯定に廻るということは今後も否定する者が現れたとてもまた肯定側に転換するであろう可能性が高いと言うことになる。さらに言えばその否定者が明確な敵意をぶつけて来たりしないなら完璧である。それは否定の継続も悪意もない極めて温い世界なのだ。つまりけいおん世界は否定し続ける者も悪意をぶつけてくる者もいない真のダメ人間の楽園だと言える。
これに先程のダメ人間カタルシスが組み合わさることで、けいおんは努力しなくても誰からも否定されず、しかもいざというときはかっこよく決める事ができるという、ある意味ダメ人間にとっての完全なる理想郷として成立しているのだ。単にダメ人間の楽園というだけなら他にもたくさん事例はあるだろうがダメ人間カタルシスと組み合わさっているとなると全く想像がつかない。当然これもまた前代未聞の事例であろう。
というわけでだらだらと長文を続けてしまった。どうせ長い文章など読みたくない輩ばかりだろうから簡潔にまとめておく。
けいおんは努力できない人のそのダメっぷりを否定するものがずっと現れないダメ人間の楽園である。
さらにいえば努力できないダメ人間がいざといういう時にかっこよくプロレベルの演奏を行うという王道的なカタルシスを持っていた作品である。
ゆえにけいおんはダメ人間にとって究極の理想郷であり。アニメオタクをはじめとするダメ人間が現実逃避に用いるのに都合がよかったのだ。
以上が当方の仮説になります。まあけいおんファンが本当に唯たちが作詞作曲演奏してると感じているというのは仮定にすぎないから、これが本当に正しいかは断言できないんだけどね。
でも、そう解釈すればけいおんの大ヒットが必然となるってことは覚えておいても損はないことだと当方は信じてます。
ちなみに一応いっておきますが、当方はけいおん信者じゃありません。どちらかと言えば嫌いなほうの人間です。念のため。
0419一部改稿。楽園性への言及を追加したら結論まで少し変化したw
鹿目まどかが本当に守りたかったもの
人をやめてつながりを喪失したまどかと、いじめで自殺をする少女との違いについて - tyokorataの日記
彼女は家族を守るためではなく、自分が見て、あこがれたセカイの為に人間をやめたのです。ですが私には、自分が属している学校というコミュニティ内のいじめや人間関係に絶望して自殺する十代の少女との違いが見つけられません。
で、少し考えてみたら自分なりの答えが見えてきたのでちょっと反論してみたい。色々あって遅くなってしまったがw
魔法少女まどか☆マギカの最終話において鹿目まどかがその願いで持って守ったのは「家族」とかではない。一見、神風特攻隊のように自分の身を犠牲にして家族や国を守ったように見えるのも確かだが、彼女が本当に守りたかったものはそんなものではない。
彼女が魔法少女になる決意をしたの原因はキュゥべえの「願い事なんてすること自体が間違い」という言葉を聞いた後、ほむらの件についてキュゥべえに問いかけた「希望を持つ限り救われないっていうの?」という疑念を肯定されたからである。この流れによってまどかは「希望を持つこと自体が間違い」とキュゥべえが考えているのだと確信する。そして彼女はそれに反論するために魔法少女になったのだ。
魔法少女は魔法少女になってから希望を抱くのではなく、人間だったときに抱いた希望を実現させるために魔法少女になるのだ。つまりは魔法少女になるか否かにかかわらず人間が希望を持つこと自体が間違っているとキュゥべえは評ている…そうまどかは判断したのだろう。キュゥべえは人類の歴史を全て知り尽くし、なおかつ合理性を持った判断のできる(それしかできない)存在である。そんなキュゥべえがしている(とまどかが判断した)考え方はこの世界の絶対的な真実(かもしれない事)として説得力をもってまどかの心に打ち込まれたのである。
人間というものは何らかの希望を持ってないと生きて行けないものだと当方は信じている。どんな些細な希望でも構わない。「大金持ちになりたい」「有名人になりたい」「おいしいご飯が食べたい」「あの子と友だちになりたい」「面白いアニメが見たい」等だって構わない。しかし、何も望まないまま生きる人間、それはただ生きているだけで屍と同じでしかない。
つまりは希望とは人間が人間らしく生きるために必要なもの。言わば人間の尊厳といってもいい。つまりまどかは人間の尊厳を守るために魔法少女になったのだ。
世界のすべてを知っているキュゥべえがもし「希望を持つことが間違い」というならばそれはおそらく今の世界の真実なのであろう。だが魔法少女になるときに叶えられる願いなら、この世界の真実自体を書き換えてしまうことだって可能である。むしろこの世界の真実を書き換えるという行為は魔法少女にならなければ不可能と考えるしか無い。普通の人間に可能なこととは到底思えないことなのだから。そういうふうに考えてまどかは魔法少女になる道を選んだのだ。
「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら 私、そんなのは違うって、何度でも言い返せます きっといつまでも言い張れます」これは第12話においてのまどかのセリフである。この「何度でも」って部分がポイントである。彼女は全ての魔法少女が魔女になってしまう瞬間に立会い。魔女になってしまう直前にソウルジェムを消し去ることでその絶望を解消してまわる。この一回一回が彼女にとって「希望を抱くことが間違いだという言葉への反論」なのである。すべての魔性少女、いや全ての並行世界の魔法少女が消えるたびに彼女はキュゥべえの言葉に反論し続けたのだ。それくらい彼女にとって希望を持つという人間の尊厳は重要なことだということになる。ちなみに「いつまでも」という件は「概念になってしまった後でも」という意味になる。
でもtyokorataさんがまどかを「人をやめてつながりを喪失した」と評したのも無理からぬ事。彼女が見ているものは家族とか仲間などではなく人間の尊厳というもっと大きなもの。ゆえにある意味超人的であり人間らしくはないから。主人公の成長した姿としては究極的で個人的にはアリだと考えてるけどね。多分まどかはキュゥべえに魔法少女達の歴史を垣間見せられた段階で神の視点に少し近づいてしまっていたのだろう。
命を捨ててでも守らなければならない大切なもの…というものは一人一人違っていて当然だと思う。そして人間としての尊厳というものもまた一人一人微妙に違うものなのだろう。でもその人が人間の尊厳だと思っているものを命がけで守ろうとする行為は否定していいものではない。もしそれを否定していいという人がいるならその人は自分にとっての人間の尊厳を穢されても構わないということになる。そんな輩は俺がそいつの人間としての尊厳を穢してやりたいw
ということで最後にもう一度。
“鹿目まどかが自分の身を犠牲にしてして守ろうとしたものは「希望」という人間の尊厳である。”
鹿目まどかがいじめで自殺する少女と同じだなんて言われたら 私、そんなのは違うって、何度でも言い返せます きっといつまでも言い張れます。
追記1。
キュゥべえが本当に「希望を持つこと自体が間違い」だと思っていたのかどうかはハッキリしない。尺の問題で断言する場面を入れられなかったのか、あるいは「願い事を叶えてもらおうとすること自体が間違い」ぐらいにしか考えていなかったのか。その辺を確認しないままのまどかの判断はやや早急なものだったのも事実。ただキュゥべえならそう考えていてもおかしくはなく、むしろそう考えていたという方が説得力があるとは思う。
追記2。
あとtyokorataさんの魔法少女システムから魔獣システムへの書き換えが改悪という意見にも納得ができない。キュゥべえによると魔獣システムよりも魔法少女システムのほうがエネルギー収集効率が高い…つまりは魔獣は魔女よりもエネルギーが小さい存在ということになる。実際、魔獣は魔法少女最弱クラスのほむらですら複数体同時に相手にできるくらいに弱い存在である。さらに使い魔も産み出さないので。魔女の場合のように使い魔も一般人を襲うことで魔女化するといこともなく、ゆえに数を増やすこともないのだ。
魔法少女達の魔女探索というのは地道な巡回によって行われてるがゆえに一般人の被害者をなくすことは出来ない。実際仁美も襲われかけたし。魔獣もおそらく同様だろう。一般人の被害をなくせないのならよりパワーの小さい相手の方が被害が少なくなる筈。根本的な解決に放ってないが、魔獣システムになったことで明らかに改善している事になる。
追記3。
tyokorataさんの、ほむらはその世界をまどかが守ろうとしたものとしてしか肯定できなかった…という意見には同意。彼女にとってまどか以外はどうでもいいものですからね。まどかの意思を守ることこそがほむらにとっての人間の尊厳なんだろうね。さらに言えばエピローグでほむらが「まどかのいない世界」という絶望を抱えたまま戦うことで魔法少女まどか☆マギカは「絶望と戦う物語」として完成してるのだとも言える。
追記4。
tyokorataさんはまどかが天国にいると思ってるようだが、彼女は魔女を倒し続けるためにどこにでも偏在する存在。つまりは天国があっても行くことを許されない。さやかはどうだかしら無いがまどかが天国にいることはありえない。彼女は死んだわけではないのだから。まどかは偏在するがゆえに、常にほむらの側にも存在している。おそらくは戦いに向かうほむらを彼女はいつも応援していたのだろう。ひょっとすると死期が近くなったほむらにはまどかの声が聞こえたのかも知れない。
テーマ : 魔法少女まどか★マギカ - ジャンル : アニメ・コミック
ファーストガンダムがマニアだけでなく子供にも受けた理由を考えてみる
ガンダムというアニメはマニア受けする要素には満ちているものの子供に受ける要素はそれほど多いとは思えない。戦争をリアルに描こうとする方向性もアムロ・レイの陰気な性格も当時はロボットアニメでは異質なものである。特にアムロの陰気さは感情移入できない子供も多いのではと思えるのだ。どうしてそんなガンダムがマニアだけでなく子供にも受けたのか…
まずとりあえずガンダム年表を見てみる。これによると80年1月にガンダムの放映が終了し、その直後2月にバンダイが商品化の権利を取得、富野が映画化案を発表している。
その後7月に144分の1ガンダムのプラモデルが発売され、7月下旬に松竹とサンライズから劇場版製作発表された。
81年2月から東京地区での再放送が開始され、3月に劇場版1作目が公開されたらしい。
つまりはガンダムの映画化についてガンプラ人気や再放送は全く関与してないことになる。純粋に打ち切り決定後に伸びてきたというマニア人気に答えるための劇場版だったようだ。よく松竹系がとれたな…
ちなみに東京ではガンダムの最初の再放送は先程記述したように81年2月からなのだが、記憶では名古屋地区ではもっと前から再放送していた気がする。ネットでは確証は得られないが。
劇場版を見るために映画館まで行く子供はそう沢山はいないだろう。とりあえず今回は劇場版の存在はスルーすることにする。
東京地区では再放送よりもガンプラの発売が先だった…ということはまずガンプラからガンダムに入る子供が圧倒的に多かったことになる。ここで注意したいのは当時の子供にとってプラモデルを作るというのは今とは違いごく当たり前だったという事。昔はレンタルビデオも汎用ゲーム機も存在せず娯楽も近年ほど充実していなかった。ゆえに時間も沢山余っていた時代。プラモデルを組むという遊びは時間も消費できて極めてコストパフォーマンスが良かったのだ。ゆえに子供たちはオモチャ屋などでプラモデルを物色するということをごく当たり前に行なっていた。100円のヤマトメカコレクションや200円の28分の1サーキットの狼シリーズなど安価な模型の存在も子供の財布に優しかったし。そんな状況だから見慣れない名前のプラモデルの存在にも子供たちはすぐに気付けることになる。
さて、ここで記述しなければならないのはガンプラの特異性である。Wikipediaのキャラクターモデルの項目を見ると、ヤマト以前のものは玩具的なギミックが最優先され作中イメージを軽視していたとある。事実存在しない車輪や武器の追加などは超合金などで多発していた。勇者ライディーンなどロケットパンチができないはずのロボットでも超合金ではロケットパンチ機構を装備していりしたのだ。
だがヤマトのヒットで作中イメージを守ることもまた商品価値を高めるための手段として有効であると証明されることとなった。
そして機動戦士ガンダムのプラモデル化である。先にも言ったとおりバンダイの権利取得は打ち切りの後である。これはおそらく一部のマニアに人気があり、バンダイにも模型化の要望が届いていることから、ひょっとしたらヤマトに続くヒット商品になるかもしれないと考えたのであろう。宇宙戦艦ヤマトも放映開始直後は人気がなかったが後半に入ってから人気が伸びてきた作品だから、ガンダムもヤマトに似た展開で最終的な人気が高くなる可能性があると。
そんなこんなで発売されたガンダムのプラモデルシリーズ、これには2つの特異性がある。まず一つはロボット型の安価な可動モデルであるということ。当時は関節が可動するプラモデルなど、アオシマの合体ロボット、アトランジャーくらいなものである。(プラモデル用のオリジナルでありアニメなどは存在しない)そしてボディ全体揃えるのにはお金がかかってしまう。それに関節の可動範囲もそんなに広くないらしく動かないよりはマシ状態のようだ。
そんな市場に現れた機動戦士ガンダムのプラモデルシリーズは可動にはこだわりを持って作られており、むしろ初期商品の144分の1ザクがその足のかかとが動かないことで否定されてしまうぐらいだ。しかも基本は一体で300円とおてごろ価格。この値段で自由にポーズが付けられるとなると今まで玩具で自由なポーズが付けられないのが当たり前だった子供たちの目が釘付けになってもなんら不思議ではない。
正確に言えばタカラの変身サイボーグやミクロマンなどの完成品玩具では関節はフル可動するんだけどこれらはロボットではなくサイボーグ。やはり巨大ロボットこそ男の子のロマンであろう。一応ミクロマンにはロボットマンというロボットもいるんだけどこれは関節殆ど動かないはず。ミクロマンが乗り込むから人間から見れば巨大でもなんでもないしなw
つぎに敵ロボットの存在。ガンダム以前にアニメの敵メカが広く商品化されたのはヤマトのプラモデルくらいであろう。だがこれも宇宙戦艦などであって巨大ロボットではない。ガンダムこそが敵ロボットの商品化の最初の成功例であろう。マジンガーZのジャンボマシンダーではガラダK7やダブラスM2の最初期の機械獣も商品化されてたようであるが到底成功したとは思えない。調べてみてもアニメの敵ロボットの他の商品化事例は宇宙の騎士テッカマンのガニラが超合金になったくらいしか見つからない。消しゴムフィギュアなどのしょぼいものならあったかもしれんが。
この敵ロボットのプラモデルの存在がどうアニメ本体に関わってくるのか説明してみたい。まず子供がオモチャ屋でドムなどの敵MSのプラモデルに興味を持ち購入するとする。そしてその子はドムの制作をへてドムというMSがさらに大好きになる。子供にとって巨大ロボットの玩具は巨大な力の象徴であり。それを自分が所有するということは現実に巨大な力を持てずに大人に翻弄されるまま逆襲できないことへの代償行為なのであろう。で、そんな子供はドムが登場するのを心待ちにしながらガンダムを見ることになる。ガンダムではモビルスーツは量産されるものでありそれまでのロボットアニメの敵ロボのような1話単位で使い捨てられるやられ役ではない。オデッサ作戦あたりでドムがガンダムに敗れさってちょっと失望した子供でもまた後になってドムが登場することを知ればガッダムを見るのをやめようとは思わないだろう。つまりはガンダムは敵側MSのファンを裏切りにくい構造を持っていると言えるのだ。
ついでに言えば敵MSは使い捨てずに使いまわすデザインだからよりしっかりしたものにする必要がある。ゆえにガンダムの敵MSはそれまでのロボットアニメの敵に比べてメカデザイン的に洗練されたものになった。洗練されたデザインだからこそさらにファンがつきやすいのだ。
さらにアニメからガンプラに入る事例についても考えてみたい。ガンダムではザクなど同じ形式の敵MSが何度も登場する。それによってそのMSの個性や魅力というものが徐々に醸しだされてくる。1話単位で使い捨てられる敵メカではこうはいかない。そして段々とその敵側MSが好きになった子供はいずれプラモデルにも手を伸ばすことになるのだ。
もうひとつ言うなら同じ形式の敵MSが何度も登場するということは少ないプラモデルで本編を再現する遊びが容易になるということでもある。これも敵ロボットが広くプラモデル化した作品だからこその要素である。さらに言えば先ほどの間接可動という要素もまたこの本編再現という要素を強化してくれるものである。ガンダムのプラモデルは本編の再現性という点でもまた特異な存在なのだ。
ということでガンダムというアニメがなぜ子供に受けたかまとめてみると、
★安価なプラモデルでの間接可動という先進性
★敵側ロボットの商品価値を高める構造
この2点によるものだと思われる。なんか色々考えた割には車輪の再発明になってる気もするが、まあいつものことだから気にしないことにする。
やはりキッズアニメでは本編の面白さよりもアクションシーンのかっこ良さと玩具の魅力こそが重要という当方の仮説は間違ってないように思う。でもこれだけでは説明しきれないものもあるので他にも重要な要素はあるのだろうが…
さて、ガンダムAGEはどうなることやら。とりあえず玩具の魅力は置いといてもアクションシーンが取り立ててカッコイイとは思えないのだが…
追記
特撮なら敵怪獣キャラの玩具は当たり前に存在してたけど、これはゴジラが悪役でありながら主役だったことが影響してるのだろう。でもなぜ特撮側の敵側の商品価値の高さをロボットアニメが参考に出来なかったのかはよくわからない。いずれ考えてみる必要があるかも知れない。
今回はガンダムが子供に受けた理由付けだからスルーしたけど宇宙戦艦ヤマトが子供に受けた理由ってのも説明できないんだよな…これもいずれ考えてみたいと思う。
マグネロボシリーズの存在をコロっと忘れてた。超合金ではあれも関節動く数は多いはず。可動範囲は広くないとは思うが
テーマ : 機動戦士 ガンダムシリーズ - ジャンル : アニメ・コミック




