理想のグラフィックツールについて
当ブログで用いる図はinkscapeを使って作成している。それまでドロー系ツールを使ったことなど全くなかったが、使ってみてやはり自分が理想としている形には程遠いと確信した。俺が求めているものはグラフィック表示用スクリプト言語のグラフィカルなエディタであってドロー系グラフィックツールではないのだ。で、なんとなく俺の思い描くグラフィックツールの仕様メモを公開してみようと思う。本来はこういうものは自分でプログラミングするべきものなのだろうが、生憎そんな力など持ちえていない駄目人間なもので。
★概要
ドロー系グラフィックツールのようにグラフィカルな作業でグラフィック表示スクリプトを制作するシステム。スクリプトを直接入力することも出来る。一般的なドロー系との違いはスクリプトがユーザー定義の関数も使えるオブジェクト指向の言語だと言う点にある。(ただし本格的なオブジェクト指向ではなくjavascript程度)
これによりグラフィックツールでありながら、引数を加工して座標などを作り出す関数が扱えるわけである。たとえば顔描画の関数で顔の左右傾きぐあいを引数とする場合に、大きな傾きの違いは範囲ごとに別の描画処理に分岐するようにしつつ、細かな傾きの違いは座標を加工するようにすることが出来る。
上手な絵を描くということは特別な技能であり、その技能を一般人が再利用する手段が現状限られすぎている。一度描かれた絵は座標加工をうまく使って何度も再利用した方が効率がよいだろう。
★ウィンドウ
完成グラフィック画面と線表示されたグラフィカルエディト用画面、それにスクリプトエディタ画面の3つが基本画面。スクリプトエディタは関数単位でのみ使え、スクリプト全体の表示はできない。グラフィカルエディト用画面の座標系はグラフィック関数ごとにフルサイズに引き伸ばすことを推奨。フルサイズは暫定的に縦横ともに-4095から+4095までの8191×8191とする。(関数の呼び出し時に小さい座標系を用いることで完成画面では小さく表示できる)あくまでも座標系の話であり、実際のウィンドウはそこまで大きく使わない事も推奨。
★言語仕様
(注意:当方は実はオブジェクト指向に明るくありませんのでおかしい点があるかもしれません。まずい点があればご指摘ください)基本的にはjavascriptやphpなどを参考にしつつ独自仕様を盛り込んでいく方針。
最重要点としてはmainなどの関数もまたオブジェクトであり、特別な宣言方法を用いた関数は行単位ですべての変数値やグラフィック描画用データが記録されていくという点にある。これにより描画済みの座標データは利用しようと思えばいつでも利用できることになる。
これは関数の呼び出し元が同じでも行が違えば別のデータに、同じ行の繰り返しでも別のデータに(配列のように扱う)なるわけで、すべての関数でこれを行うと膨大なメモリを消費することにもなりかねない。あくまでも描画データを再利用したいものに限ることが推奨される。
もちろん関数オブジェクト内で記録されたデータを親階層関数などですべて破棄することも出来る。
★描画命令群
POINT:点描画
LINE:線分描画
FIELD:領域描画
TOFIELD:前回の領域から今回指定の領域までの間を描画
F2FIELD:二つの指定領域の間を描画、FIELD命令とTOFIELD命令が一体化したもの
CIRCLE:円、楕円描画
POLY:正多角形描画
BOX:長方形描画
ここでのF2FIELDの使用例として、たとえばふくらはぎや乳房のテカリを描くときに領域を複数に階層分けして別のフィールドと見なし、白に透明度をグラデーションをつけて描けばかなりシンプルに再現できる。グラデーション形状は複数選べるが、基本はフィールド1を円形変形させたものにフィールド2を円形変形させて対応座標を特定する。足りない座標点は自動補完。対応座標が特定したら始点と終点が決まるわけで、それをもとにグラデーション描画が可能になる。
領域の階層分けについてわかりやすく説明すると、たとえば二重丸記号「◎」の内側の円と外側の円は階層で分かれていると見なせる。つまり内側の円と外側の円の間はF2FIELDで描画できるということ。
★描画用オブジェクト基本仕様
描画面例実行情報:
行ラベル情報、奥行き、各命令種別とそれに必要な情報から構成される。
F2FIELD命令実行情報:
領域情報1、領域情報2、内部グラデーション情報から構成される。
TOFIELD命令実行情報:
領域情報、内部グラデーション情報ぁら構成される。
FIELD命令実行情報:
領域情報、内部グラデーション情報から構成される。
LINE命令実行情報:
線分情報から構成される。
POINT命令実行情報:
点情報、ペン情報から構成される。
CIRCLE,POLY,BOXにも命令実行情報はあるが割愛。
領域情報:
線用ペン情報、はみ出し許可の有無、排他描画フラグ、奥行き情報、内部着色情報、複数の点情報から構成される。
線分情報:
線用ペン情報、奥行き情報、複数の点情報から構成される。
線ペン情報:
ペン情報、線形状(実線、破線など)、最大線幅、最低線幅保障有無、色情報から構成される。
ペン情報:
ペン形状(ミリペン、つけペン、毛筆、エアブラシなど)、ペン着色情報から構成される。
点情報:
点ラベル情報、点タイプ(直点or曲点)、座標情報(X座標、Y座標)、点単位ペン情報(筆圧、傾き)から構成される。
ペン着色情報:
色情報、インク消耗率から構成される。
色情報:
色指定形式情報、着色形式(加算か減算か、透過率)、着色用色演算関数から構成される。
色指定形式情報:
色指定形式(RGB、YUV、グレイスケール、タイルパターンデータなど)、グラデーションフラグから構成される。
内部グラデーション情報:
色情報2つ、内部グラデーション形状選択から構成される。基本形状は円の内から外へと向かう線形グラデを領域の形に合わせて変形させたもの。
最低幅保障有無:
縮小表示時に切り上げする線の幅、切捨てする線の幅。これによりどれだけ縮小しても絶対に描くべき線や一定以上縮小したら消え去る線が指定できる。0の時は無効。
マスク情報:
領域座標情報群、マスクレベルを指定するためのグレイスケール出力関数
座標変換系情報:
変換方式の選択、二次元アフィン変換配列あるいは仮想座標と実座標、座標変換用関数
点タイプにおいて、直前の座標から今回の座標までの線が直線になる点をとりあえず本稿では暫定的に「直点」と呼ぶことにする。同じく今回描画する線が曲線になる点も暫定的に「曲点」と呼ぶ。
注意点としては言語仕様としてはベジェ曲線描画をすることはできない事が挙げられる。あくまでもスプライン曲線描画のみである。ただしグラフィカルな作業によってベジェ曲線を描くことでスクリプト上では細かく分割されたスプライン曲線に変換されるようにして作業者の負担を減らすようにする。ベジェ曲線をスクリプト上で扱わないのは座標点の再利用が困難なためである。
引数が省略された場合は基本的に前回使用値をそのまま用いる。
★システム変数、ラベル名等の表記など
表記例:
システム変数 $$systemvar
システム定数 $$_systemconst
行ラベル ##'linelabel'
行ラベル ##"linelabel"
行ラベル ##:linelabelstr
点ラベル #@'pointlabel'
点ラベル #@"pointlabel"
点ラベル #@:pointlabelstr
ラベル類はすべて英数字のみ使える。
行ラベルは座標再利用時に関数内行番号を指定しなくてもよいようにするため。行ラベルはローカル変数名などと重複してはいけない
点ラベルもこれがないと再利用時に行内点番号を指定しなくてはいけなくなる。
F2FIELDグラディーション時には点ラベルがあれば2つの領域間で同一名義のものが優先的に対応されることになる。
点ラベルは行ラベルの階層下にあるのでローカル変数名などとも重複して良い。
引数やグローバル変数のデフォルト代入演算子 #=
例:
global gx#=65536;
デフォルト値がないと関数単位でのグラフィカルな座標修正ができない場合が出て来る。もちろん本格的に座標演算をする関数はグラフィカルな座標修正はできなくなるのだが
システム変数例:
$$X …………… 現X座標
$$Y …………… 現Y座標
$$X_B ………… 直前X
$$Y_B ………… 直前Y
$$Z …………… 現奥行き
$$XY …………… 現座標情報
$$CT …………… 現・点タイプ
$$COLSEL ……… 現・色指定形式
$$L_LABEL …… 現・行ラベル
$$L_LABEL_B … 直前・行ラベル
$$L_EXECC_B … 現階層・直前行の関数呼び出し内での実行回数
$$P_L_EXECC … 親階層・現在行の関数呼び出し内での実行回数
$$P_LABEL …… 現・点ラベル
$$P_LABEL_B … 直前・点ラベル
$$P_LABEL_A … 次・点ラベル
$$FUNCNAME …… 現階層・関数名
$$P_FUNCNAME … 親階層・関数名
$$SCRIPTNAME … 現・スクリプトファイル名
★関数定義
function ………通常関数の宣言
gfunction ………グラフィック描画を含む関数の宣言。グラフィック関数オブジェクトとして扱われ、描画情報が行の実行ごとに保存されていく。
gnfunction ………グラフィック描画を含む関数の宣言だが、グラフィック関数オブジェクトとしては扱われず。描画情報は保存されない。
vfunction ………行ごとの変数値がすべて保存される関数の宣言。データ保存関数オブジェクトとして扱われる。
gvfunction ………gfunctionとvfunctionの合体。データ保存グラフィック関数オブジェクトとして扱われる。
no_g_edit ………グラフィック関数宣言時の修飾子。宣言時にこれが使われている関数はグラフィカルな座標編集ができない。
destroy_g(funcname); …グラフィック関数オブジェクト内部の座標情報を破棄する関数。
destroy_v(funcname); …データ保存関数オブジェクトに保存された変数情報を破棄する関数。
destroy_gv(funcname); …データ保存グラフィック関数オブジェクトに保存された情報を破棄する関数。
グラフィック描画を使う関数はできるだけgfunctionかgvfunction宣言を用いる。そして保存データが不要なときはすぐに親階層で破棄するようにする。グラフィカルな座標編集ができるのはgfunctionかgvfunction、gnfunctionに限られる。
★グラフィック関数オブジェクトの各情報の呼び出し
例: 頭部描画関数の下にある顔描画関数の下にある目描画関数の下にあるハイライト描画関数の指定行ラベル内の指定点ラベルの点情報を取り出す。
pointinfo=main->headfunc->facefunc->eyefunc->highlightfunc->linelabelname->pointlabelname;
注意:点ラベルは行ラベルの真下の階層にあるわけではない。つまり情報と一致する名義を探して下階層に向かって探索するということである。最初に見つかったもののみが有効。下方探索で見つからなかったらNULLが返される。
★乱数再現
乱数は関数ごとに独立しており、常に完全に再現される。エアブラシも同様。再現性をなくすためには関数内で乱数系列を時間などから設定する必要がある。乱数系列の初期値はスクリプト名と関数名とスクリプト作成者名によって決まる。
★応用例
2つのスクリプトを見比べて、関数の階層構造と行ラベルと点ラベルが一致している場合にモーフィングを容易に作成することが出来る。不足している点情報は自動補完させればいい。さらにはアニメの中割りに利用できる可能性もある。階層の一致している点ラベル名の座標値群からスプライン補完で中割座標を補完したらなめらかな動きが作り出せるかもしれない。
★名称
とりあえずDOLES(DrawingObjectLaungageEditSystem)…ドレスというのをシステムの仮名にしておきます。スクリプト言語の方はDOL(ドール)で。
★概要
ドロー系グラフィックツールのようにグラフィカルな作業でグラフィック表示スクリプトを制作するシステム。スクリプトを直接入力することも出来る。一般的なドロー系との違いはスクリプトがユーザー定義の関数も使えるオブジェクト指向の言語だと言う点にある。(ただし本格的なオブジェクト指向ではなくjavascript程度)
これによりグラフィックツールでありながら、引数を加工して座標などを作り出す関数が扱えるわけである。たとえば顔描画の関数で顔の左右傾きぐあいを引数とする場合に、大きな傾きの違いは範囲ごとに別の描画処理に分岐するようにしつつ、細かな傾きの違いは座標を加工するようにすることが出来る。
上手な絵を描くということは特別な技能であり、その技能を一般人が再利用する手段が現状限られすぎている。一度描かれた絵は座標加工をうまく使って何度も再利用した方が効率がよいだろう。
★ウィンドウ
完成グラフィック画面と線表示されたグラフィカルエディト用画面、それにスクリプトエディタ画面の3つが基本画面。スクリプトエディタは関数単位でのみ使え、スクリプト全体の表示はできない。グラフィカルエディト用画面の座標系はグラフィック関数ごとにフルサイズに引き伸ばすことを推奨。フルサイズは暫定的に縦横ともに-4095から+4095までの8191×8191とする。(関数の呼び出し時に小さい座標系を用いることで完成画面では小さく表示できる)あくまでも座標系の話であり、実際のウィンドウはそこまで大きく使わない事も推奨。
★言語仕様
(注意:当方は実はオブジェクト指向に明るくありませんのでおかしい点があるかもしれません。まずい点があればご指摘ください)基本的にはjavascriptやphpなどを参考にしつつ独自仕様を盛り込んでいく方針。
最重要点としてはmainなどの関数もまたオブジェクトであり、特別な宣言方法を用いた関数は行単位ですべての変数値やグラフィック描画用データが記録されていくという点にある。これにより描画済みの座標データは利用しようと思えばいつでも利用できることになる。
これは関数の呼び出し元が同じでも行が違えば別のデータに、同じ行の繰り返しでも別のデータに(配列のように扱う)なるわけで、すべての関数でこれを行うと膨大なメモリを消費することにもなりかねない。あくまでも描画データを再利用したいものに限ることが推奨される。
もちろん関数オブジェクト内で記録されたデータを親階層関数などですべて破棄することも出来る。
★描画命令群
POINT:点描画
LINE:線分描画
FIELD:領域描画
TOFIELD:前回の領域から今回指定の領域までの間を描画
F2FIELD:二つの指定領域の間を描画、FIELD命令とTOFIELD命令が一体化したもの
CIRCLE:円、楕円描画
POLY:正多角形描画
BOX:長方形描画
ここでのF2FIELDの使用例として、たとえばふくらはぎや乳房のテカリを描くときに領域を複数に階層分けして別のフィールドと見なし、白に透明度をグラデーションをつけて描けばかなりシンプルに再現できる。グラデーション形状は複数選べるが、基本はフィールド1を円形変形させたものにフィールド2を円形変形させて対応座標を特定する。足りない座標点は自動補完。対応座標が特定したら始点と終点が決まるわけで、それをもとにグラデーション描画が可能になる。
領域の階層分けについてわかりやすく説明すると、たとえば二重丸記号「◎」の内側の円と外側の円は階層で分かれていると見なせる。つまり内側の円と外側の円の間はF2FIELDで描画できるということ。
★描画用オブジェクト基本仕様
描画面例実行情報:
行ラベル情報、奥行き、各命令種別とそれに必要な情報から構成される。
F2FIELD命令実行情報:
領域情報1、領域情報2、内部グラデーション情報から構成される。
TOFIELD命令実行情報:
領域情報、内部グラデーション情報ぁら構成される。
FIELD命令実行情報:
領域情報、内部グラデーション情報から構成される。
LINE命令実行情報:
線分情報から構成される。
POINT命令実行情報:
点情報、ペン情報から構成される。
CIRCLE,POLY,BOXにも命令実行情報はあるが割愛。
領域情報:
線用ペン情報、はみ出し許可の有無、排他描画フラグ、奥行き情報、内部着色情報、複数の点情報から構成される。
線分情報:
線用ペン情報、奥行き情報、複数の点情報から構成される。
線ペン情報:
ペン情報、線形状(実線、破線など)、最大線幅、最低線幅保障有無、色情報から構成される。
ペン情報:
ペン形状(ミリペン、つけペン、毛筆、エアブラシなど)、ペン着色情報から構成される。
点情報:
点ラベル情報、点タイプ(直点or曲点)、座標情報(X座標、Y座標)、点単位ペン情報(筆圧、傾き)から構成される。
ペン着色情報:
色情報、インク消耗率から構成される。
色情報:
色指定形式情報、着色形式(加算か減算か、透過率)、着色用色演算関数から構成される。
色指定形式情報:
色指定形式(RGB、YUV、グレイスケール、タイルパターンデータなど)、グラデーションフラグから構成される。
内部グラデーション情報:
色情報2つ、内部グラデーション形状選択から構成される。基本形状は円の内から外へと向かう線形グラデを領域の形に合わせて変形させたもの。
最低幅保障有無:
縮小表示時に切り上げする線の幅、切捨てする線の幅。これによりどれだけ縮小しても絶対に描くべき線や一定以上縮小したら消え去る線が指定できる。0の時は無効。
マスク情報:
領域座標情報群、マスクレベルを指定するためのグレイスケール出力関数
座標変換系情報:
変換方式の選択、二次元アフィン変換配列あるいは仮想座標と実座標、座標変換用関数
点タイプにおいて、直前の座標から今回の座標までの線が直線になる点をとりあえず本稿では暫定的に「直点」と呼ぶことにする。同じく今回描画する線が曲線になる点も暫定的に「曲点」と呼ぶ。
注意点としては言語仕様としてはベジェ曲線描画をすることはできない事が挙げられる。あくまでもスプライン曲線描画のみである。ただしグラフィカルな作業によってベジェ曲線を描くことでスクリプト上では細かく分割されたスプライン曲線に変換されるようにして作業者の負担を減らすようにする。ベジェ曲線をスクリプト上で扱わないのは座標点の再利用が困難なためである。
引数が省略された場合は基本的に前回使用値をそのまま用いる。
★システム変数、ラベル名等の表記など
表記例:
システム変数 $$systemvar
システム定数 $$_systemconst
行ラベル ##'linelabel'
行ラベル ##"linelabel"
行ラベル ##:linelabelstr
点ラベル #@'pointlabel'
点ラベル #@"pointlabel"
点ラベル #@:pointlabelstr
ラベル類はすべて英数字のみ使える。
行ラベルは座標再利用時に関数内行番号を指定しなくてもよいようにするため。行ラベルはローカル変数名などと重複してはいけない
点ラベルもこれがないと再利用時に行内点番号を指定しなくてはいけなくなる。
F2FIELDグラディーション時には点ラベルがあれば2つの領域間で同一名義のものが優先的に対応されることになる。
点ラベルは行ラベルの階層下にあるのでローカル変数名などとも重複して良い。
引数やグローバル変数のデフォルト代入演算子 #=
例:
global gx#=65536;
デフォルト値がないと関数単位でのグラフィカルな座標修正ができない場合が出て来る。もちろん本格的に座標演算をする関数はグラフィカルな座標修正はできなくなるのだが
システム変数例:
$$X …………… 現X座標
$$Y …………… 現Y座標
$$X_B ………… 直前X
$$Y_B ………… 直前Y
$$Z …………… 現奥行き
$$XY …………… 現座標情報
$$CT …………… 現・点タイプ
$$COLSEL ……… 現・色指定形式
$$L_LABEL …… 現・行ラベル
$$L_LABEL_B … 直前・行ラベル
$$L_EXECC_B … 現階層・直前行の関数呼び出し内での実行回数
$$P_L_EXECC … 親階層・現在行の関数呼び出し内での実行回数
$$P_LABEL …… 現・点ラベル
$$P_LABEL_B … 直前・点ラベル
$$P_LABEL_A … 次・点ラベル
$$FUNCNAME …… 現階層・関数名
$$P_FUNCNAME … 親階層・関数名
$$SCRIPTNAME … 現・スクリプトファイル名
★関数定義
function ………通常関数の宣言
gfunction ………グラフィック描画を含む関数の宣言。グラフィック関数オブジェクトとして扱われ、描画情報が行の実行ごとに保存されていく。
gnfunction ………グラフィック描画を含む関数の宣言だが、グラフィック関数オブジェクトとしては扱われず。描画情報は保存されない。
vfunction ………行ごとの変数値がすべて保存される関数の宣言。データ保存関数オブジェクトとして扱われる。
gvfunction ………gfunctionとvfunctionの合体。データ保存グラフィック関数オブジェクトとして扱われる。
no_g_edit ………グラフィック関数宣言時の修飾子。宣言時にこれが使われている関数はグラフィカルな座標編集ができない。
destroy_g(funcname); …グラフィック関数オブジェクト内部の座標情報を破棄する関数。
destroy_v(funcname); …データ保存関数オブジェクトに保存された変数情報を破棄する関数。
destroy_gv(funcname); …データ保存グラフィック関数オブジェクトに保存された情報を破棄する関数。
グラフィック描画を使う関数はできるだけgfunctionかgvfunction宣言を用いる。そして保存データが不要なときはすぐに親階層で破棄するようにする。グラフィカルな座標編集ができるのはgfunctionかgvfunction、gnfunctionに限られる。
★グラフィック関数オブジェクトの各情報の呼び出し
例: 頭部描画関数の下にある顔描画関数の下にある目描画関数の下にあるハイライト描画関数の指定行ラベル内の指定点ラベルの点情報を取り出す。
pointinfo=main->headfunc->facefunc->eyefunc->highlightfunc->linelabelname->pointlabelname;
注意:点ラベルは行ラベルの真下の階層にあるわけではない。つまり情報と一致する名義を探して下階層に向かって探索するということである。最初に見つかったもののみが有効。下方探索で見つからなかったらNULLが返される。
★乱数再現
乱数は関数ごとに独立しており、常に完全に再現される。エアブラシも同様。再現性をなくすためには関数内で乱数系列を時間などから設定する必要がある。乱数系列の初期値はスクリプト名と関数名とスクリプト作成者名によって決まる。
★応用例
2つのスクリプトを見比べて、関数の階層構造と行ラベルと点ラベルが一致している場合にモーフィングを容易に作成することが出来る。不足している点情報は自動補完させればいい。さらにはアニメの中割りに利用できる可能性もある。階層の一致している点ラベル名の座標値群からスプライン補完で中割座標を補完したらなめらかな動きが作り出せるかもしれない。
★名称
とりあえずDOLES(DrawingObjectLaungageEditSystem)…ドレスというのをシステムの仮名にしておきます。スクリプト言語の方はDOL(ドール)で。
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ガイナックス病の終焉
本稿は随分前に下書きをしたまま放置してあったものをそのまま掲載してます。実際には『シン・ゴジラ』はアメリカにて幾らかの評価を得ています。
東日本大震災と官僚政治
2016年夏公開の特撮怪獣映画『シン・ゴジラ』は邦画の中でも近年まれに見る大ヒットとなった。この『シン・ゴジラ』は海外での評判はそれほど高くはないらしく、日本人にしか受けないのではという下馬評が肯定されたと言っていい状況だろう。ではなぜ『シン・ゴジラ』は日本人にしか受け入れられないのか。
東日本大震災、いわゆる311の大地震からの大津波と、それによる原発事故は我々日本人の心に大きな傷跡を残すことになった。それゆえこの災害がもたらした災害イメージは日本人の共通認識となってしまったのである。結果として日本という国で物語上、大きな災害が描かれる場合は、どうしても311と比較することになってしまうというわけである。余りにも強烈なイメージが植え付けられたために、たとえ明確に意識していなくとも、どうしても潜在意識レベルでは比較してしまう。311以上の災害が現れない限りは今後も災害イメージのテンプレートであり続けるだろう。
そして『シン・ゴジラ』はこの311イメージを踏襲した作品であり、呑川を遡るときに小舟や瓦礫を押し流してくるのは、明らかに311の津波映像のイメージだし、そもそもゴジラ自体が放射能を象徴した存在であり、原発事故を連想せざるをえない。さらにいうなら序盤においては日本という国の政治家と御用学者のダメな部分を推し出す構成になっていて、政治家や学者に不満や不安を抱きやすい一般市民目線を重視していると言えるだろう。ただしその後はだれも足を引っ張らないスピーディな会議に変わっていき、各省庁から変わり者を集めた対策本部が作られると、日本という国の底力が示されていくことになる。官僚たちが中心になって政策を作る日本においては、総理大臣という国のトップはお飾りという側面がどうしても拭えず、だれが首相になっても政治は代わり映えしないのではというイメージは日本人なら大なり小なり持っているものだと思う。もちろん民主党政権においては無能すぎる政党が政権を担った場合はその限りではない事が証明されたとも言えるのであるが、自民党政権は現実から目をそらそうとしない分、そこまで無能ではない。ゆえに自民党ならだれがトップになってもたいして変わらないというイメージはいまだに続いているといえるだろう。
『シン・ゴジラ』はヒーローを描かない
話を『シン・ゴジラ』に戻そう。この『シン・ゴジラ』という作品には矢口という明確な主人公はいても、彼一人をヒーローとして描かているわけではない。「巨大不明生物特設災害対策本部」、略して巨災対という集団、そして自衛隊、そのほかゴジラ対策に関わった人全てがヒーローと言え、それゆえに明確なヒーローなどどこにも存在しないのである。
一般的にヒーローという存在は特殊な状況において有効性の高い際立った能力を持っているものであり、それゆえに平和な日常においてはその能力を持て余しがちになる。日本という国は基本として出るくいが打たれるのは当たり前のことという認識が横行しており、それは言ってみれば「はみ出しもの」を自分のそばから除去しようとする行為である。そして自分の能力を持て余している存在というのは社会においてははみ出しものになりやすい。人間は全能にも全知にもなれない以上、何か人より優れた特別な能力を持っている場合、逆に何か人より劣った部分も抱えている場合が多いのである。そして日本の社会は自身の能力によって社会貢献できない人が平均よりも劣った部分を持っていることを許そうとしない場合が多い。つまり日本という国は基本的にヒーローの存在を許さないのである。『シン・ゴジラ』がヒーロー不在のままゴジラを倒してしまうのは完全に日本という国の現状を肯定していると言っていいだろう。これらのことを考慮すると、『シン・ゴジラ』は日本という国をちきんと理解していない人には全くおもしろみのない作品とみなされるのが自然だろう。
はみ出し者に僅かに優しい世界
さて日本という国がヒーローというはみ出しものを許さないのなら、巨災対の連中はどうなのだという意見も出てくるだろう。だがそもそも彼らは各省庁で官僚して働いている人間である。そこから考えれば、彼らのはみ出し具合はそれほど大きくはなく、自分の能力を持て余していたりせずに社会貢献できている存在だと推察できる。おそらくは日常において周りの人たちからは、気に入らないけど仕事ができるから文句が言えない相手、と認識されていたのではなかろうか。ともあれ官僚としてやっていける人間ははみ出し者としてはそれほど重い症状ではない。言うなれば「少しはみ出し者」と言った具合だろうか。
先ほどは『シン・ゴジラ』は日本を肯定する作品だとしたが、厳密に言うと、巨災対の連中のような少しはみ出している人は特別有用になる可能性もあるのだから、もう少し優しくしてやってはというメッセージも含んでいると考えたほうがいいだろう。日本という国が真のはみ出しものを排除しようとする国ならば、「少しはみ出し者」な相手を排除したがっている人もいるということになる。そういう人によって、もしかすると有用かもしれない「少しはみ出し者」を排除することは、逆にリスクを追うことになるかもしれないのである。
さて、この「少しはみ出し者」に優しくするという意識を持ち続けた場合、はみ出し者というレッテルの位置づけも僅かずつズレていくことになる。そして「少しはみ出し者」に明確な基準がない以上、それに優しくするのならば、基準が緩めの人間が、それらよりも少し多めにはみ出しているものにもほんの少しだけ優しくすることにもつながる。さらに言えば、優しくするという意識を持ち続けることは最終的に自分たちと同じ権利を持つことを許容することに到達するわけで、そうなると「少しはみ出し者」は普通の人と同じ扱いになる。「少しはみ出し者」が普通扱いされる世界では「少しはみ出し者」に比べてもう少しはみ出しているものが「少しはみ出し者」として扱われることになる。そしてその新しい「少しはみ出し者」に優しくするのならば、彼らもまた最終的には普通の人扱いになるのであう。それを繰り返していくことは、言うなれば、はみ出しものに対して優しい社会をかなり超長期のスパンで実現していくことに他ならない。
オタク批判という病、そして…
さて『シン・ゴジラ』の監督である庵野秀明はガイナックス制作のアニメ、『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版と旧劇場版においてオタクを批判した。オタクにありがちな自分の殻に閉じこもり世間を見ようとしない面や自分に自信を持てずにウジウジしていたする面を真っ向から否定したのである。だがそのオタク批判は肝心のオタクにはほとんど届かずにオタクを批判したがっているサブカルにだけ受け入れられた。そんな状況にもかかわらずガイナックスはそのオタク批判精神は『まほろまてぃっく』や『この醜くも美しい世界』に引き継がせていく。これらと先のエヴァと合わせると一時期においてはオタク批判はガイナックスの作風と言える状態になってしまった。なおガイナックスのオタク批判の萌芽は庵野秀明の初監督作品である『ふしぎの海のナディア』最終話の最後の場面から存在している。それは大人になったマリーが模型飛行機を飛ばす場面から、いつものエンディングである模型飛行機を追いかけるジャンとナディアの影につなげるシーンである。この模型飛行機というのは童心の象徴である。作中最年少だったマリーが大人になって模型飛行機を飛ばすという場面は童心を切り離す象徴表現である。つまり子供だったマリーですらアニメから卒業したんだからお前らもそうしろというメッセージをそれから読み取ることも可能なのである。ただ注意しないといけないのは模型飛行機を飛ばすマリーの最後のセリフは「またね」である。もしこれが「さよなら」だったなら、この場面は完全なオタク批判として成立していただろう。再会の約束を意味する「またね」が使われている以上はこの場面はオタク批判としてみるならば、かなり中途半端なものにしかなっていない。ただTV最終話の段階では続編の劇場版の制作が決まっていた可能性もあり、様々なしがらみから不本意ながらも「またね」を使わざるを得なかったのかもしれない。
ガイナックスのオタク批判の影響を受けた作品としては『少女革命ウテナ』が挙げられるだろう。薫幹の持っているストップウォッチはタイムキーパーの証であり、この物語が作り話であることを象徴していると考えられる。そこから考えれば決闘場は劇場などの舞台を意味することになるだろう。そして最後に姫宮アンシーが天上ウテナを探すために物語の舞台である学園から去っていくのは、物語からの卒業を意味することになる。つまりウテナも物語から抜け出しているのである。そして最終話本放送時のエンドカードは当方の記憶ではテーブルの上に写真立てが飾ってある実写映像であり、写真立ての中にはウテナとアンシーが一緒にいるアニメ絵が描かれていた。ようするにアニメキャラがアニメから卒業したということである。なお不思議なことにこのエンドカードについてネットで調べても何の情報も出てこない。ウテナ最終話は当時何度か作品解釈のために見返しているので記憶違いということも考えづらいのだが。
ガイナックスとJC.STAFFとの共作である『忘却の旋律』の最終話においてもオタク批判的な要素を見いだすことができる。主人公のボッカがモンスターキング・ソロモンと弓の打ち合いをした時、恋人の小夜子がボッカをかばおうとし、忘却の旋律もまたソロをかばおうとする展開がある。忘却の旋律というのはソロが生み出した自我をもった幻影のようなものであり、幻影ゆえに矢は素通りしてしまう。だが小夜子の方には実体があるがゆえにソロの弓矢が命中し、ボッカには当たらない。その結果としてボッカはモンスターキングを倒すことができたわけである。これは実体のない幻影を追い求め続けることの批判と捉えることが可能であり、オタク批判の一種と言っていいだろう。ちなみに当方は忘却の旋律という作品世界は同じ歴史時間を延々と繰り返しているのではという独自解釈をもっていたりするが、本稿とは無関係なので公表は控えることにする。
これらのガイナックス病とも呼べるオタク批判の流れを止めたのは『天元突破グレンラガン』だろう。ひたすら穴を掘ることだけを取り柄とした主人公シモンはある意味オタクであるといえる。そんなシモンが兄貴分や後に恋人になる相手などの影響から自分に自信が持てる男へと変わっていく事になる。そしてその結果、シモンは自分の本質を否定せずに受け入れ、なおかつリーダーシップが取れるようになるのである。
この展開はいうなれば自身のオタク性を否定せずに受け入れることこそがオタクと社会の共存の最初の一歩だと示していると考えることができるだろう。実際ガイナックスが再三オタクを真っ向から批判しても何も改善はしなかった。むしろオタクを肯定し自信を持たせたほうがオタクの持つ問題点は解決するのではという提言をしてきた訳である。ただオタクが問題点を持っているという考え方はそれ以前のガイナックス病作品と変わらない。あくまでも問題点を解決する方法としてのオタクの自己肯定である。
なお新劇場版については未完ということで本稿ではこれ以上触れないことにする。ただ現状の3作目「Q」までの段階においてはオタク批判というよりも人間の普遍的な愚かさを批判しようとしているという印象がある。
話を『シン・ゴジラ』に戻そう。この『シン・ゴジラ』においてはオタクを直接批判する要素はない。ただ先に述べたように現状の日本におけるはみ出し者排除も批判していない以上、どちらかといえばオタクに対する批判も少しは含んでいると考えたほうがいいだろう。だが社会をはみ出しものに優しい世界に少しずつ変えていこうとする意思も感じ取れ、それはオタクを変えるよりも社会をオタクに肯定的に変えていくほうが、オタクの持つ問題点を解決することにつながるという考え方を意味する。
庵野秀明が生み出したオタク批判というガイナックス病はオタクに自己肯定をさせようとした『天元突破グレンラガン』、そしてオタクよりも社会そのものを変えていこうという提言を含む『シン・ゴジラ』によって完全に終焉したといえるだろう。
オタク趣味者の増加とサブカルの終焉
この流れを生み出したのはオタク趣味をもつ人間の増加であり、それは本来の純粋なオタクだけでなく、優等生型オタク、マイルドヤンキー型オタクも増加し、むしろ後ろ二種の増加比率が多いことが影響していると考えられる。
新海誠監督の『君の名は。』が大ヒットしたのも、大人になってもアニメを見続けることに抵抗感を持たない層が増えている証とも考えられる。
そしてオタク趣味を持つものには濃い純粋オタクに対するリスペクトを持つ人も多い。優等生要素が強い人でも何を教科書的だと考えるかによってその評価軸が変わってくる。濃いオタクのうちの成功者を教科書的と捉える層も存在するのである。そしてマイルドヤンキー要素が強い人でも純粋オタク要素がゼロな人はそれほど多くはない。純粋オタク要素がある程度あれば『シン・ゴジラ』の丁寧で緻密な濃い隠し要素を受け入れられるかもしれない。オタク趣味者の増加はたとえ純粋オタクがそれほど増えていないとしても。それはオタク趣味を徐々に肯定する流れを生み出していく元になるのである。
そもそもオタクと最も相性の悪い人種はサブカルである。サブカルは世間が評価しないものの真の価値を見いだすことで自身の優位性を証明しようとする存在であり、世間がどう言おうと気にせず自分の趣味に拘るオタクとは真逆である。ゆえに批評家というサブカルは本質的にオタクを批判したがる。オタクとサブカルは同じマイナーものにこだわっていて世間からは区別がつけづらく、同一視されることも多い。ゆえにサブカルには自身がオタクとは異なる優秀な存在だというアピールで差別化をする必要性が出て来る。そしてやっかいなことにサブカル要素とオタク要素が一人の人間の中で両立することもある。特撮番組であるウルトラシリーズなどの影響を受けた人間、特に『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」や『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いの少年」に影響されてオタクになった層は、その時代性からオタク同士のコミュニケーション手段に乏しく、そもそもオタク人口すら非常に少ない状態を過ごして来ている。こういう場合は自分がだれよりも詳しいという勘違いが発生しやすくなり、他人を見下しやすくなる。自分は優れているのだから他人を見下して当たり前なのだと思うようになったらそれはサブカルであり、他人を見下し続ければオタクといえどもサブカル化してしまうのである。つまりオタク第一世代というのはサブカルとオタクが自身の中で両立している人も多く、オタク人口とコミュニケーション手段が増えていくごとにオタクとサブカルの両立は難しくなっていく。時代が進むほどサブカルとオタクは分化されていくわけで、それゆえに今の若い世代ではサブカルとオタクは完全に別の存在と考えるしか無い。そこから考えると庵野秀明もまたサブカルとオタクが共存した人間だったと考えられ、一連のガイナックス病作品もまたそうしたサブカル共存オタクが生み出したと考えられる。
更に言えばオタク趣味を持つ人間の増加は自分が選んだ作品こそが正しいとするサブカルとは相性が悪い。ようするにすでに少人数のオタクとだけ対立していればい時代ではなくなっており、圧倒的多数の人間を敵に回すことを意味するからである。
この夏に公開された『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の登場によって、古いオタクが持っていたサブカル成分が生み出したガイナックス病は完全に息の根を止められたと言える。そしてサブカルという他人を見下す文化もこれからどんどん肩身が狭くなっていくと考えられる。そう考えればオタク趣味を持ったサブカルという人種は当然のこと、思想のサブカルであるリベラル批評家もどんどん減少していくだろう。残るのはいわゆる意識高い系ぐらいだろうか。これは上昇志向の持ち主が故に人を見下しやすいという特性を持っていて、サブカルの一種なのだが、就職難の時代にどうやって周りから抜きん出ていい就職先を得るかを考えると、就活生がどうしても上昇志向になってしまうのは仕方のない事だろう。
東日本大震災と官僚政治
2016年夏公開の特撮怪獣映画『シン・ゴジラ』は邦画の中でも近年まれに見る大ヒットとなった。この『シン・ゴジラ』は海外での評判はそれほど高くはないらしく、日本人にしか受けないのではという下馬評が肯定されたと言っていい状況だろう。ではなぜ『シン・ゴジラ』は日本人にしか受け入れられないのか。
東日本大震災、いわゆる311の大地震からの大津波と、それによる原発事故は我々日本人の心に大きな傷跡を残すことになった。それゆえこの災害がもたらした災害イメージは日本人の共通認識となってしまったのである。結果として日本という国で物語上、大きな災害が描かれる場合は、どうしても311と比較することになってしまうというわけである。余りにも強烈なイメージが植え付けられたために、たとえ明確に意識していなくとも、どうしても潜在意識レベルでは比較してしまう。311以上の災害が現れない限りは今後も災害イメージのテンプレートであり続けるだろう。
そして『シン・ゴジラ』はこの311イメージを踏襲した作品であり、呑川を遡るときに小舟や瓦礫を押し流してくるのは、明らかに311の津波映像のイメージだし、そもそもゴジラ自体が放射能を象徴した存在であり、原発事故を連想せざるをえない。さらにいうなら序盤においては日本という国の政治家と御用学者のダメな部分を推し出す構成になっていて、政治家や学者に不満や不安を抱きやすい一般市民目線を重視していると言えるだろう。ただしその後はだれも足を引っ張らないスピーディな会議に変わっていき、各省庁から変わり者を集めた対策本部が作られると、日本という国の底力が示されていくことになる。官僚たちが中心になって政策を作る日本においては、総理大臣という国のトップはお飾りという側面がどうしても拭えず、だれが首相になっても政治は代わり映えしないのではというイメージは日本人なら大なり小なり持っているものだと思う。もちろん民主党政権においては無能すぎる政党が政権を担った場合はその限りではない事が証明されたとも言えるのであるが、自民党政権は現実から目をそらそうとしない分、そこまで無能ではない。ゆえに自民党ならだれがトップになってもたいして変わらないというイメージはいまだに続いているといえるだろう。
『シン・ゴジラ』はヒーローを描かない
話を『シン・ゴジラ』に戻そう。この『シン・ゴジラ』という作品には矢口という明確な主人公はいても、彼一人をヒーローとして描かているわけではない。「巨大不明生物特設災害対策本部」、略して巨災対という集団、そして自衛隊、そのほかゴジラ対策に関わった人全てがヒーローと言え、それゆえに明確なヒーローなどどこにも存在しないのである。
一般的にヒーローという存在は特殊な状況において有効性の高い際立った能力を持っているものであり、それゆえに平和な日常においてはその能力を持て余しがちになる。日本という国は基本として出るくいが打たれるのは当たり前のことという認識が横行しており、それは言ってみれば「はみ出しもの」を自分のそばから除去しようとする行為である。そして自分の能力を持て余している存在というのは社会においてははみ出しものになりやすい。人間は全能にも全知にもなれない以上、何か人より優れた特別な能力を持っている場合、逆に何か人より劣った部分も抱えている場合が多いのである。そして日本の社会は自身の能力によって社会貢献できない人が平均よりも劣った部分を持っていることを許そうとしない場合が多い。つまり日本という国は基本的にヒーローの存在を許さないのである。『シン・ゴジラ』がヒーロー不在のままゴジラを倒してしまうのは完全に日本という国の現状を肯定していると言っていいだろう。これらのことを考慮すると、『シン・ゴジラ』は日本という国をちきんと理解していない人には全くおもしろみのない作品とみなされるのが自然だろう。
はみ出し者に僅かに優しい世界
さて日本という国がヒーローというはみ出しものを許さないのなら、巨災対の連中はどうなのだという意見も出てくるだろう。だがそもそも彼らは各省庁で官僚して働いている人間である。そこから考えれば、彼らのはみ出し具合はそれほど大きくはなく、自分の能力を持て余していたりせずに社会貢献できている存在だと推察できる。おそらくは日常において周りの人たちからは、気に入らないけど仕事ができるから文句が言えない相手、と認識されていたのではなかろうか。ともあれ官僚としてやっていける人間ははみ出し者としてはそれほど重い症状ではない。言うなれば「少しはみ出し者」と言った具合だろうか。
先ほどは『シン・ゴジラ』は日本を肯定する作品だとしたが、厳密に言うと、巨災対の連中のような少しはみ出している人は特別有用になる可能性もあるのだから、もう少し優しくしてやってはというメッセージも含んでいると考えたほうがいいだろう。日本という国が真のはみ出しものを排除しようとする国ならば、「少しはみ出し者」な相手を排除したがっている人もいるということになる。そういう人によって、もしかすると有用かもしれない「少しはみ出し者」を排除することは、逆にリスクを追うことになるかもしれないのである。
さて、この「少しはみ出し者」に優しくするという意識を持ち続けた場合、はみ出し者というレッテルの位置づけも僅かずつズレていくことになる。そして「少しはみ出し者」に明確な基準がない以上、それに優しくするのならば、基準が緩めの人間が、それらよりも少し多めにはみ出しているものにもほんの少しだけ優しくすることにもつながる。さらに言えば、優しくするという意識を持ち続けることは最終的に自分たちと同じ権利を持つことを許容することに到達するわけで、そうなると「少しはみ出し者」は普通の人と同じ扱いになる。「少しはみ出し者」が普通扱いされる世界では「少しはみ出し者」に比べてもう少しはみ出しているものが「少しはみ出し者」として扱われることになる。そしてその新しい「少しはみ出し者」に優しくするのならば、彼らもまた最終的には普通の人扱いになるのであう。それを繰り返していくことは、言うなれば、はみ出しものに対して優しい社会をかなり超長期のスパンで実現していくことに他ならない。
オタク批判という病、そして…
さて『シン・ゴジラ』の監督である庵野秀明はガイナックス制作のアニメ、『新世紀エヴァンゲリオン』のTV版と旧劇場版においてオタクを批判した。オタクにありがちな自分の殻に閉じこもり世間を見ようとしない面や自分に自信を持てずにウジウジしていたする面を真っ向から否定したのである。だがそのオタク批判は肝心のオタクにはほとんど届かずにオタクを批判したがっているサブカルにだけ受け入れられた。そんな状況にもかかわらずガイナックスはそのオタク批判精神は『まほろまてぃっく』や『この醜くも美しい世界』に引き継がせていく。これらと先のエヴァと合わせると一時期においてはオタク批判はガイナックスの作風と言える状態になってしまった。なおガイナックスのオタク批判の萌芽は庵野秀明の初監督作品である『ふしぎの海のナディア』最終話の最後の場面から存在している。それは大人になったマリーが模型飛行機を飛ばす場面から、いつものエンディングである模型飛行機を追いかけるジャンとナディアの影につなげるシーンである。この模型飛行機というのは童心の象徴である。作中最年少だったマリーが大人になって模型飛行機を飛ばすという場面は童心を切り離す象徴表現である。つまり子供だったマリーですらアニメから卒業したんだからお前らもそうしろというメッセージをそれから読み取ることも可能なのである。ただ注意しないといけないのは模型飛行機を飛ばすマリーの最後のセリフは「またね」である。もしこれが「さよなら」だったなら、この場面は完全なオタク批判として成立していただろう。再会の約束を意味する「またね」が使われている以上はこの場面はオタク批判としてみるならば、かなり中途半端なものにしかなっていない。ただTV最終話の段階では続編の劇場版の制作が決まっていた可能性もあり、様々なしがらみから不本意ながらも「またね」を使わざるを得なかったのかもしれない。
ガイナックスのオタク批判の影響を受けた作品としては『少女革命ウテナ』が挙げられるだろう。薫幹の持っているストップウォッチはタイムキーパーの証であり、この物語が作り話であることを象徴していると考えられる。そこから考えれば決闘場は劇場などの舞台を意味することになるだろう。そして最後に姫宮アンシーが天上ウテナを探すために物語の舞台である学園から去っていくのは、物語からの卒業を意味することになる。つまりウテナも物語から抜け出しているのである。そして最終話本放送時のエンドカードは当方の記憶ではテーブルの上に写真立てが飾ってある実写映像であり、写真立ての中にはウテナとアンシーが一緒にいるアニメ絵が描かれていた。ようするにアニメキャラがアニメから卒業したということである。なお不思議なことにこのエンドカードについてネットで調べても何の情報も出てこない。ウテナ最終話は当時何度か作品解釈のために見返しているので記憶違いということも考えづらいのだが。
ガイナックスとJC.STAFFとの共作である『忘却の旋律』の最終話においてもオタク批判的な要素を見いだすことができる。主人公のボッカがモンスターキング・ソロモンと弓の打ち合いをした時、恋人の小夜子がボッカをかばおうとし、忘却の旋律もまたソロをかばおうとする展開がある。忘却の旋律というのはソロが生み出した自我をもった幻影のようなものであり、幻影ゆえに矢は素通りしてしまう。だが小夜子の方には実体があるがゆえにソロの弓矢が命中し、ボッカには当たらない。その結果としてボッカはモンスターキングを倒すことができたわけである。これは実体のない幻影を追い求め続けることの批判と捉えることが可能であり、オタク批判の一種と言っていいだろう。ちなみに当方は忘却の旋律という作品世界は同じ歴史時間を延々と繰り返しているのではという独自解釈をもっていたりするが、本稿とは無関係なので公表は控えることにする。
これらのガイナックス病とも呼べるオタク批判の流れを止めたのは『天元突破グレンラガン』だろう。ひたすら穴を掘ることだけを取り柄とした主人公シモンはある意味オタクであるといえる。そんなシモンが兄貴分や後に恋人になる相手などの影響から自分に自信が持てる男へと変わっていく事になる。そしてその結果、シモンは自分の本質を否定せずに受け入れ、なおかつリーダーシップが取れるようになるのである。
この展開はいうなれば自身のオタク性を否定せずに受け入れることこそがオタクと社会の共存の最初の一歩だと示していると考えることができるだろう。実際ガイナックスが再三オタクを真っ向から批判しても何も改善はしなかった。むしろオタクを肯定し自信を持たせたほうがオタクの持つ問題点は解決するのではという提言をしてきた訳である。ただオタクが問題点を持っているという考え方はそれ以前のガイナックス病作品と変わらない。あくまでも問題点を解決する方法としてのオタクの自己肯定である。
なお新劇場版については未完ということで本稿ではこれ以上触れないことにする。ただ現状の3作目「Q」までの段階においてはオタク批判というよりも人間の普遍的な愚かさを批判しようとしているという印象がある。
話を『シン・ゴジラ』に戻そう。この『シン・ゴジラ』においてはオタクを直接批判する要素はない。ただ先に述べたように現状の日本におけるはみ出し者排除も批判していない以上、どちらかといえばオタクに対する批判も少しは含んでいると考えたほうがいいだろう。だが社会をはみ出しものに優しい世界に少しずつ変えていこうとする意思も感じ取れ、それはオタクを変えるよりも社会をオタクに肯定的に変えていくほうが、オタクの持つ問題点を解決することにつながるという考え方を意味する。
庵野秀明が生み出したオタク批判というガイナックス病はオタクに自己肯定をさせようとした『天元突破グレンラガン』、そしてオタクよりも社会そのものを変えていこうという提言を含む『シン・ゴジラ』によって完全に終焉したといえるだろう。
オタク趣味者の増加とサブカルの終焉
この流れを生み出したのはオタク趣味をもつ人間の増加であり、それは本来の純粋なオタクだけでなく、優等生型オタク、マイルドヤンキー型オタクも増加し、むしろ後ろ二種の増加比率が多いことが影響していると考えられる。
新海誠監督の『君の名は。』が大ヒットしたのも、大人になってもアニメを見続けることに抵抗感を持たない層が増えている証とも考えられる。
そしてオタク趣味を持つものには濃い純粋オタクに対するリスペクトを持つ人も多い。優等生要素が強い人でも何を教科書的だと考えるかによってその評価軸が変わってくる。濃いオタクのうちの成功者を教科書的と捉える層も存在するのである。そしてマイルドヤンキー要素が強い人でも純粋オタク要素がゼロな人はそれほど多くはない。純粋オタク要素がある程度あれば『シン・ゴジラ』の丁寧で緻密な濃い隠し要素を受け入れられるかもしれない。オタク趣味者の増加はたとえ純粋オタクがそれほど増えていないとしても。それはオタク趣味を徐々に肯定する流れを生み出していく元になるのである。
そもそもオタクと最も相性の悪い人種はサブカルである。サブカルは世間が評価しないものの真の価値を見いだすことで自身の優位性を証明しようとする存在であり、世間がどう言おうと気にせず自分の趣味に拘るオタクとは真逆である。ゆえに批評家というサブカルは本質的にオタクを批判したがる。オタクとサブカルは同じマイナーものにこだわっていて世間からは区別がつけづらく、同一視されることも多い。ゆえにサブカルには自身がオタクとは異なる優秀な存在だというアピールで差別化をする必要性が出て来る。そしてやっかいなことにサブカル要素とオタク要素が一人の人間の中で両立することもある。特撮番組であるウルトラシリーズなどの影響を受けた人間、特に『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」や『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いの少年」に影響されてオタクになった層は、その時代性からオタク同士のコミュニケーション手段に乏しく、そもそもオタク人口すら非常に少ない状態を過ごして来ている。こういう場合は自分がだれよりも詳しいという勘違いが発生しやすくなり、他人を見下しやすくなる。自分は優れているのだから他人を見下して当たり前なのだと思うようになったらそれはサブカルであり、他人を見下し続ければオタクといえどもサブカル化してしまうのである。つまりオタク第一世代というのはサブカルとオタクが自身の中で両立している人も多く、オタク人口とコミュニケーション手段が増えていくごとにオタクとサブカルの両立は難しくなっていく。時代が進むほどサブカルとオタクは分化されていくわけで、それゆえに今の若い世代ではサブカルとオタクは完全に別の存在と考えるしか無い。そこから考えると庵野秀明もまたサブカルとオタクが共存した人間だったと考えられ、一連のガイナックス病作品もまたそうしたサブカル共存オタクが生み出したと考えられる。
更に言えばオタク趣味を持つ人間の増加は自分が選んだ作品こそが正しいとするサブカルとは相性が悪い。ようするにすでに少人数のオタクとだけ対立していればい時代ではなくなっており、圧倒的多数の人間を敵に回すことを意味するからである。
この夏に公開された『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の登場によって、古いオタクが持っていたサブカル成分が生み出したガイナックス病は完全に息の根を止められたと言える。そしてサブカルという他人を見下す文化もこれからどんどん肩身が狭くなっていくと考えられる。そう考えればオタク趣味を持ったサブカルという人種は当然のこと、思想のサブカルであるリベラル批評家もどんどん減少していくだろう。残るのはいわゆる意識高い系ぐらいだろうか。これは上昇志向の持ち主が故に人を見下しやすいという特性を持っていて、サブカルの一種なのだが、就職難の時代にどうやって周りから抜きん出ていい就職先を得るかを考えると、就活生がどうしても上昇志向になってしまうのは仕方のない事だろう。
男女の性差について5.オタク論その他
(注意)当記事は一連の記事の一部となっております。順番に辿っていってください。
男女の性差について1.性差の実例
男女の性差について2.共感とシステム化、その本質について
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
男女の性差について5.オタク論その他
5.オタク論その他
オタク論との融合
受容性と拒絶性を描いた図7にオタク分類図をシンプルな形で書き加えると図8のようになる。なおこの図における面積に意味はない。できれば面積と人数比率を一致させたかったが力不足のためにそこまで至らなかった。あくまでも位置関係を示すものだと考えてほしい。なお基本的に男性性=拒絶性、女性性=受容性と解釈して構わない。グラフの右下側に女性が多く、左上側に男性が多く、それぞれの性別のほとんどが半円内に収まってると考えられる。
図8

優等生集合が女性よりなのは、世間という他者に服従し、自我を抑えようとする者だからである。この女性に優等生が多いという現象は、親や教師に共感してしまうことでそれらの意に沿った行動を取りやすくなるからだとも、社会にしたがうことで一定の共感可能領域を確保するためとも考えられる。
男性に優等生が少ないのはそもそも男性はリスクを好む傾向が強い生き物だからである。そして男の優等生は女性のそれとは違い、社会規範にしたがうことで社会の中での序列を確保しようとする存在である場合が多いだろう。
なお優等生型オタクはこの優等生という集団に属するがその中でもグラフの上寄りにどちらかといえば偏っていると推察される。つまオタクよりな分拒絶性は高めになるという考え方である。
次に図においてヤンキー集合がマイルドヤンキー集合に挟まれている事についての説明する。受容性が高い場合は攻撃性が表れにくいが、拒絶性が高まればその分だけ攻撃性は表れやすくなる。この受容性が高いから攻撃性が表れにくい集団をマイルドヤンキー第一群と呼ばせてもらう。そして逆に受容性が低くなりすぎると拒絶性が高まっても攻撃性は表れにくくなる。結果としてヤンキー集団の中心位置が最も攻撃性が表れやすいのである。この受容性が低いから攻撃性が表れにくい集団をマイルドヤンキー第二群と呼びたい。ちなみに群番号で呼ぶのはいい呼び名を思いつかなかったからである。
なお萌えオタクを含めたマイルドヤンキー型オタクは第一群にも第二群にも含まれてると考えられるが、純粋オタクと近い位置にいる第二群側の方がその比率は高くなると予測される。最もその差がどれくらいなのかは現状では予測すらついていない。正直言って第一群と第二群の差はまったく不明瞭なのである。その辺りはもっと研究が必要であろう。
サブカルは優等生の発展型でありつつ、ヤンキーともある種の親和性が見られる。たとえば思想のサブカルであるところの反政府思想をもつ「しばき隊」をみれば、ヤンキーとの親和性は一目瞭然であろう。
そして純粋オタクと自閉症の類似性は先に示したとおりで、オタクというのはいわば自閉症の一歩手前か片足を突っ込んでいる状態であるといえる。
なおオタク論についての詳しいことは以前のブログ記事か、あるいは改定済み電子書籍版を参照してほしい。
BL二段階仮説
女性向け作品には男性同士の友情を超えた強すぎる思いを恋愛とみなして描くジャンルが存在する。いわゆるボーイズラブである。一次創作でもその手の作品には人気があるが特に既存作品をBlとして描く二次創作に人気が集まっているように見える。
ではなぜ女性にとってBLというものがそれほど大切なのだろうか。一般的にBL趣味とは恋愛資本主義に迎合できない女性が自らの女性性を放棄することで同調圧力から自由になろうとする行為と言われることが多い。そもそも女性という生き物は男性からの性的な視線を意識せざるをえない場合が多い。女性が大好きな化粧やファッションなども女性的な価値を高めるためのものであり、結局は男性が女性を品定めする価値観の上に成り立っている。そういう男性主権の価値観が支配している現実に納得できない女性が作品上で男性のみを一方的に性的に消費することで、現実社会へ反抗心を昇華している…というのがいままでのBL解釈だったのである。だがその考え方では男女の異性愛も男性同士の恋愛も同じくらい大好きだという層の説明がつかない。異性愛への許容度が高まればその分同性愛への熱意も失われないと説明がつかないのである。ゆえに先の理論ではカバーできない範囲においては別の理論が働いている可能性を考えなければならない。
BLにおいては立場の上下というものが重要であるという意見を目にしたことがある。BLではどちらが上位の立場に立つかが明確である場合が圧倒的に多い。いわゆる「攻め」というものが「受け」より上位にいる場合が多いのである。もちろん「誘い受け」という「攻め」をコントロール下においている特殊な場合もあるのだが、これは一見下位にいる者の方が本質的には立場が上という状態を意味するわけで上下関係がないわけではない。そして「リバース」という状態は「受け」「攻め」が入れ替わる事を示すが、この場合も上位と下位が入れ替るわけで、上位と下位が存在しないような平等状態を意味しないのである。
なお現実の男性において立場の上下とはコミュニティー内での序列関係を意味する。だが性差の本質を見極めた後で考えるなら、男性の序列に拘る思いを完全に理解できる女性はほとんど存在しないと考えた方がいいだろう。ではなぜBL好きは男性の序列に拘るのか。ここで思い出さなければならないのが女性にとって重要なのは共感だという事である。一般的に女性にとって序列付けというものは本質的に共感できないものであり、恋愛は共感できるものである。ならば男性同士の序列関係を恋愛にすげ替えてしまえばどうだろうか。つまり序列関係への拘りを愛情の発露と思い込んでしまえば、男性の序列関係が女性にとって理解できる、共感可能なものにすり変わるのである。もちろん実際には序列関係はあくまでもパワーバランスなのであって恋愛関係を含んでいることはまずない。だがその思い込みによって女性の共感可能領域は大幅に広がるのである。女性性の本質は受容性である以上、女性はできることなら男性を理解したいという思いを持っていることが多いはずである。序列を恋愛と勘違いすることによって女性は男性を理解し受容した気分になることができて、そしてそれが女性の幸福感の向上につながるのである。もちろんこの序列を恋愛ととらえることは誤解ではあるのだが、実在の人物をモデルにしていない場合なら特に実害はないだろう。だれにも迷惑をかけずに見かけ上の受容領域が増えることで女性が幸福な気分になるのであれば、それは十分意味のあることだと考えられる。
なお当方は先の男性からの性的消費への反抗心という面がBLに影響しているという考え方を全否定する気はない。つまりBLには二段階存在し、第一段階として男性どうしの序列へのこだわりを恋愛に置き換えることで男性を受容した気分になろうとする状態、第二段階として、男性からの一方的な性的消費への反抗心を満たそうとする状態があるという考え方である。第一段階の者は男性同士の恋愛描写さえあれば満足で、性描写はそれほど必要とはしない人が多く、男女異性愛描写にも寛容な場合が多い。そして第二段階の場合は男性同士の性描写を強く求める人が多く、男女異性愛描写を好まない人が多いという予測が成り立つ。もちろんこれは傾向の話であり、第二段階の女性が全員異性愛否定派ということはありえないだろうし、第一段階の人で男性同士の性描写を求めていてもそれが特別に異常なことというわけではない。
女性とゲームと人形遊び
女性はゲーム性にこだわらないという話がある。そもそもゲーム性の本質はルールを読み解き最適解に近づく方法を模索することである。ようするにこれもまたシステム化に他ならない。つまり女性というのは本質的にゲームを好まない人が多いということである。なお女性が好むのはパズルゲームだという結果を出したアンケートもあるが、この場合のパズルゲームはLINEゲームなどのゲーム性の低いものであり、言ってみれば暇つぶしを目的としたものでしかない。
だがパズルの他にも女性に人気のあるゲームは存在する。たとえば乙女ゲームと呼ばれる、女性主人公とイケメン男性群との恋愛を主題としたアドベンチャーゲームである。だがこういうストーリー主導型のアドベンチャー。はいうなれば小説の進化形であり、本質的なゲーム性は乏しい場合が多い。脱出ゲームなどの謎解きを主軸にしたタイプのアドベンチャーが女性に人気がでたという話は聞いたことがなく。故に乙女ゲームを求めている層は単にインタラクティブな物語を求めているにすぎないと考えた方がいいだろう。
あと女性ウケしたゲームの特殊事例の1つとして『ファイアーエムブレム』(以下『FE』)という任天堂のSLGが挙げられる。このゲームは二次創作においては女性向けジャンルという認識が一般的なのである。そもそもSLGというのはゲーム性の塊のようなものであり、男性ゲーマーでも手を出さないものがいるほどである。ではなぜそんな『FE』は女性受けしたのだろうか。『FE』の特殊性として子孫を作って能力を引き継ぐという要素が挙げられる。つまりキャラクター同士を結婚させられるのである。『FE』では兵士として扱うキャラクターには一人ひとり名前と顔があるが人格はほとんど設定されていない。ここで思い出さなければならないのが女の子はお人形遊びが好きだということである。人形に自ら考えた架空の人格をあたえて遊ぶのは女の子にとってあたりまえの経験である。これは自分のおもちゃであるお人形をより共感できる存在に昇華させようとする行為であると考えられる。この場合の共感度の深さは言ってみれば愛情である。女の子は共感によって自分のおもちゃをより愛せるようになるのである。このお人形遊びに用いる架空の人格投与は人形にだけ使われるものではなく、人格設定のない、あるいは不十分なキャラクターすべてに対して行われる可能性があり、女性の二次創作の根源と言ってもいいだろう。つまり先の『FE』でも女性は自分が好きなように人格設定をすることで、自分が共感しやすいキャラクターを作り出すというお人形遊びと同様なことが行われているのである。そこから考えれば、一般的に女性にとってゲーム性は基本不要なものであるが、お人形遊びの素材提供力が優秀なゲームはゲーム性が高くても許容しやすくなる…という仮説が導かれる。
自閉症と純粋な性欲
自閉症患者は自分の感情を内省することすら難しい場合があるという。つまり自閉症というのは他人の感情はおろか自分の感情ですらどうでもいい状態に近づいていると考えられるのである。自閉症が極端な男性型脳だということを考えれば一般の男性でも自分の感情はどうでもいいと思える場合が存在する可能性がある。女性が好きな相手としかセックスしたくないとする人が多いのに対し、男性の場合は好きでもない相手と性行為が可能な人が多いのは、自分の恋愛感情と性行為を切り離して考えられるからであり、これは言ってみれば自分の中で感情を切り離しているということでもある。
さらに言えばテストステロン量と性欲は相関していて、男性の場合は女性より10倍から20倍ほど分泌されると言われ、それは男性の方が女性よりも圧倒的に性欲が強い理由の1つとされている。なお中年女性の性欲が高いのは女性ホルモン量が減少した結果、相対的に男性ホルモン量が増加するためだと考えられている。単順に考えれば、性欲がより強ければ強いほど、感情を切り離した性行為が容易になると見なせるわけで、性欲の強い男性は女性よりも感情を伴わないセックスを平気で行いやすい事を証明しているといえるだろう。
男性にとって自分の中で感情を切り離せる場合があり、それが性欲に絡むときに顕著になるというのなら、アダルトビデオやエロ同人誌などを鑑賞するときにもまた同様に感情を切り離していると考えた方がいいだろう。ここから考えを進めていくと、男性はエロ同人誌を見るとき、自分から感情を切り離すことで、主人公と自分を同一視しやすくしているという考え方ができる。さらに逆方向から主人公の感情を切り捨てるという方向性もある。そしてそのどちらも行う場合そこにあるのは感情を伴わない純粋な性欲だけになるわけである。
女性の場合は感情を容易には切り離せない。ゆえに恋愛関係の二人の間に割り込むことがやりづらい。これは女性が自分だけでなく物語の登場人物から感情を切り捨てることもできないことから来ていて、結果として女性にとってのポルノとは他人のセックスをのぞき見て行為者がどれくらいの幸福感や性感を得ているか想像することで相手への共感としているものである可能性が高い。いわゆる夢小説という自分を主人公にした二次創作が存在するが、これは女性が登場人物の感情を切り捨てないようにしつつ自分のとって都合がいい展開を描くための手法であるといえるだろう。
女性の働き方
スーザン・ピンカーによると現代女性はかなり明確に、3つの集団に分かれるという。まず専業主婦を望む「家庭中心型」が20%、そしてキャリアを優先する「仕事中心型」が20%、残り60が「適応型」になるという。
「仕事中心型」というのキャリア志向の女性は、女性であるための不利益をほとんど感じることはない。男性と同じ資格を持ち、同じ時間働けば、同じ報酬を受け取ることができるという。つまり男性とまったく同じ生き方ができる女性でなのである。
「適応型」である過半数の女性は育児とキャリアを両立させるために最適の形を探して、勤務時間や職種の異なるさまざまな仕事を渡り歩く場合が多い。彼女たちは家族のニーズと自分自身の価値観に合わせて仕事の仕方を調整する。この傾向は、スウェーデンやノルウェーのような進歩的な社会でもアメリカと同じように見られる。適応型の女性は最初から確固としてプランを持たないか、あるいは自分が生んだ赤ん坊の顔を見た時にプランを変えることを選ぶという。結局パートタイマーで働くことになったり、転職を繰り返したり、家族を優先させなければつけたはずの地位より手前のポストにとどまったりするケースが少なくない。
こうした女性の生き方の多様性を「選好理論」と呼ぶ。それはすべての女性が同じことを望むわけではないということ、そして選択の自由を与えられた時、男性と同じ道を選ぶ女性はおよそ二割しか居ないことを示しているという。つまり残りの八割は家族などのコミュニティー内で互いに共感し合う時間を仕事よりも大切なものだと考えるのである。ようするに男性と同じ生き方をして幸せに近づける女性は2割しか存在せず、残りの8割は幸せから遠ざかるのである。
なお女性は所属する集団から助言者役を求められる事もある。相談相手に女性を求めるというのは性差の特性だけでなく社会習慣による先入観も混じってる可能性もあるが、ともかくそのせいで本来の業務に支障をきたした研究者が仕事をやめ、教師になった事例もあるという。教師ならば生徒のメンター役をこなすことも仕事のうちであるといえる。こういう他者との積極的なコミュニケーションが重要になる仕事は多くの女性に向いている言えるだろう。たとえば教師、カウンセラー、看護師、介護士などである。
ちなみにとある経営コンサルタントが担当した企業において、高負担で高報酬、一日十四時間労働で週末勤務もこなすモーレツな働き方をする「サメ派」と、バランスの取れた人間関係重視の働き方をしたい「カレイ派」を統合しようと試みたが、結果として会社の内部崩壊を招いてしまったという。彼はこの結果から2つの働き方は共存し得ないものだと結論づけた。
生命力の差と分布ムラ
男の胎児は数としては女児より多いが母体のストレスの影響を受けやすい。そして女児は男児に比べ、受胎直後の不安定な時期を乗り切る力も強く、分娩時のトラブルの影響も受けにくい。そして障害や早期胎児死亡に見舞われる率も低めである。さらに環境や社会的条件が悪化すれば、より脆弱な男の胎児の方が死亡率は高くなるといわれている。そもそも男性ホルモンの一種であるテストステロン値が高くなると免疫力も低下してしまう。このことは男性の方がガンなどの慢性疾患の発症率が高いことに何らかの関係性があると考えられている。
男性はもともとの寿命が女性よりも短い。そのうえさらに危険なリスクを好むがゆえ事故などで死んでしまう確率も女性より高い。このようにさまざまな面から見て男性は女性よりも生命として脆弱なのである。
優等生志向が強く忍耐強い女子は学業でも男子より優秀である。アメリカでは男子が特殊学級に入る比率は女子の三倍、落第は二倍、高校中退者は三倍になるという。ただ男子は女子よりも成績のばらつきが多く、成績優秀者だけ切り取れば男子の方が多く、劣等生だけしても男子の方が多い。つまり女子は平均値に偏りがちだが、男子には天才もバカも多いのである。
ちなみに今のアメリカの大学入試では女子の方の合格ラインを男子より高めにしないとキャンパスが女子大化してしまうという。男女平等を実現するために男女比を均等にすべきという考え方が女子の大学入学を男子より難しくしているのである。
なお、男子の自制心などの心理的発達は、幼年期こそ女子に劣るものの思春期をへるうちに追いつくという。身長も12歳あたりでは女子の方が大きいが、20歳では男子の方が高いのが普通である。つまり男子は大器晩成型の可能性ものである。
ムラが大きく危険を好み、他人に対して攻撃的でありながら、生命力の弱い男性について考える前に、まず赤ん坊を産んで育てる必要がある女性について考える必要がある。女性は強い生命力と温厚さと高い感情読解力を兼ね備えた存在であった方が子孫を残しやすい。安定性もあって個体のムラがすくない方がいいだろう。逆に男性は女性ほどの安定性は必要ない。高い能力を示したオスの遺伝子だけ残ればいいのだから、男性はむしろ遺伝子の多様性を継承するために個体のムラは大きき方がいい。狩りや群れの序列争いなどで危険に挑み、そこで大きな結果を出すことでメスからの評価が上がるのなら、オスはより危険なことに挑むように進化していくのが必然である。そこから考えると哺乳類のオスとメスは見事にその役割を分担しているの事がわかる。
キブツ共同体について
20世紀初頭に確立したイスラエルのキブツという共同体は性別や社会階級による障壁を完全になくしたユートピアを目指して作られたという。そこでは男も女も与えられた仕事は何でもすることを期待されて、住民たちも自らがそれを望んでいると考えていた。子どもは親とは別に寄宿舎で生活し、訓練した保育士が男女を区別しない教育を行う。テレビが普及しても利用は制限された。親と子どもは食事と就寝前の時間のみを子どもと過ごすが、食事の用意は共同で洗濯も業者に委託するので家事や育児をする必要性はない。
そういうキブツでの生活を過ごすうちにはやがて性差は解消し、あらゆる職業が男女半々ずつになる未来が訪れると信じられていたが、現実は真逆だった。四世代が経過しても女性の七割から八割は人間を相手にする仕事、特に保育や教育分野に集まり、男性の多くは農作業や工場、建設、営繕関係の仕事を選んだという。そしてキブツでの生活が長いほど性別役割を分担する傾向が強い。キブツ育ちの女性で建設の仕事を選ぶ女性はほとんどおらず、農業や工業分野で働く女性は16%未満だった。
男の方も保育士を選ぶ者は一人もおらず、小学校教師を選んだ男性も18%に満たなかった。そして男女は別々のコミュニティーで生活し、異性と顔を合わせるのは自宅の家族のみという人も多いという。キブツにおとずれた研究者はこの男女別のコミュニティーをまるで2つの別の村のようだと語っている。このように性差を無くすことを目指して作られたコミュニティーが実際には男女の性差を明確に示すことになったのである。
傷つかないようにするよりも
以前のブログ記事やtogetterまとめでは男女差の根源を狩猟本能に求めていたが、これは根本的に間違っていたと認めるしか無い。よく野生動物に餌を与えると狩りができなくなるから与えてはいけないと言われているが、これは生物にとって狩猟本能というものがそれほど重要度が高くないことを意味していると考えられる。本当に狩猟本能の重要度が高いものであれば餌を与えようと狩りをしなくなったりはしないはずだろう。となれば男女差の根源は子孫を生み出すための生殖活動や育児にあると考えた方がいいはずである。
そして以前のまとめにおいて当方はSNSを使う女性は基本鍵アカウントにした方がよいのでという提案をした件についても考えを改めている。以下に今の考えを述べる。
もともと女性は傷つきやすい生き物であり、それはリアルでもネットでも代わりはない。リアルで傷つく女性を慰めるのが女性コミュニティーの役割ならば、ネットで傷ついた女性を癒やすのも女性コミュニティーの役割のはずである。
そもそも人を傷つけないようにしたり自分が傷つかないようにすることよりも身近に傷ついた人がいる場合はその人を支えようとすることが大事なのである。
傷ついても支えてくれる人がちゃんといることを経験することによって人はたとえ傷ついても倒れにくくなっていく。傷ついた人が倒れないように支えることこそが一番大切なのである。そこから考えれば女性が傷つかないように予防策を講じるよりも傷ついた後に慰めを与える存在を確保させるべきだということになる。
それは自分を強く承認してくれるコミュニティーを見つけ出す事が重要ということなのだが、その場合できればネット越しでないリアルな関係が望ましいだろう。直接触れ合って慰める方が圧倒的に効率が良いからである。そしてもしコミュニティー維持のために自分を押さえ込んでいる部分があるのなら、もっと自分にあったコミュニティーを探す必要があるという事になる。
女性にとって一番重要なのは共感であって、その要となるのは感情である。女性というのは感情論でものを語ることが多く、それは時に、論理に基づく正論とは真逆なものになることがある。むしろそうなる場合の方が多いと考えられるかもしれない。ようするに正論というのは女性の共感を阻害する事もあるわけで、当然共感を阻害された女性はその正論に反感を覚え、人によっては反対意見を挙げることになる。再三述べているが女性にとって共感とそれによる承認はそれだけ重要なものなのである。
だがその場合に女性が挙げる反対意見もまた感情論にすぎない場合が多く、自身の感情論に共感してくれる論客がいないことによってさらに傷つくことになる。そのように正論というのはひたすらに女性を傷つける事がある。そして当然ながら傷ついた女性を慰めるのも共感コミュニティーの役割であり、それゆえ女性には自分を深く承認してくれるコミュニティーが必要になるのである。
ネットの荒波はただでさえ傷つきやすい女性をひたすら傷つけかねない。もしSNSを使うのなら傷ついた時にしっかり自分を慰めてくれる相手が必要ということである。もちろんそれ以前の話として、まず一般的な女性性の本質を理解することが第一であり、その次に自分がどの程度一般的な女性性と一致し、どの程度ずれているかを自覚することも大切であると言えるだろう。
受容性は女性の本質であるが、受容の基準が自分の感情だけだとしたら、それは場合によってはひたすら独善的なものになりかねない。特に理屈に秀でているケースも多い男性の意見を問答無用で切り捨てるなら、そこに待つのは感情論が支配する世界である。そこに待つのは、たとえば凶悪犯でも裁判官の同情を買うことができたら無罪になるような人治国家である。
なお男性性が支配する社会は情に流されずにシステム的に運営されるものを意味し、それを突き詰めていけば効率のみを重視したディストピアになる。それはつまり社会がそこまで達しないようにするためには女性性というブレーキが必要だということを意味している。何事にもバランスが大切なのである。
最後に
性差を認めることはさらなる男女差別につながると考える人もいるであろう。だが性差を認めずに女性に男性のようになることを強要することは、むしろ大きな齟齬を生み出すもとになると考えられる。まず正しい性差を認め、男女が互いの特性を尊重しあうことこそが双方が幸福にたどり着くための第一歩であろう。もちろん一般的な男性像から外れている男性も、同様に女性の一般像とは異なる女性も、それぞれに同じように尊重されなくてはならない。多様性を認めるということは正解以外の存在を許そうとしない事を意味しないのである。
もちろん正しい性差を広めることでそれをいわれのない差別に利用しようとする人は出てくるだろう。その場合はそういう人を個別に批判していくしか無い。自分のいる側こそが正しいのだと盲信する人はどこにでもいるが、そういう相手は時間をかけて説得していくしか方法はない。この手の問題を一朝一夕に解決することは不可能なのである。なお自分のいる側こそが正しいという盲信はどちらかというと女性の方に発生しやすい。それは根拠をともなわない共感を最重要なものとして生きている女性が多いからである。
参考文献
男女の性差について1.性差の実例
男女の性差について2.共感とシステム化、その本質について
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
男女の性差について5.オタク論その他
5.オタク論その他
オタク論との融合
受容性と拒絶性を描いた図7にオタク分類図をシンプルな形で書き加えると図8のようになる。なおこの図における面積に意味はない。できれば面積と人数比率を一致させたかったが力不足のためにそこまで至らなかった。あくまでも位置関係を示すものだと考えてほしい。なお基本的に男性性=拒絶性、女性性=受容性と解釈して構わない。グラフの右下側に女性が多く、左上側に男性が多く、それぞれの性別のほとんどが半円内に収まってると考えられる。
図8

優等生集合が女性よりなのは、世間という他者に服従し、自我を抑えようとする者だからである。この女性に優等生が多いという現象は、親や教師に共感してしまうことでそれらの意に沿った行動を取りやすくなるからだとも、社会にしたがうことで一定の共感可能領域を確保するためとも考えられる。
男性に優等生が少ないのはそもそも男性はリスクを好む傾向が強い生き物だからである。そして男の優等生は女性のそれとは違い、社会規範にしたがうことで社会の中での序列を確保しようとする存在である場合が多いだろう。
なお優等生型オタクはこの優等生という集団に属するがその中でもグラフの上寄りにどちらかといえば偏っていると推察される。つまオタクよりな分拒絶性は高めになるという考え方である。
次に図においてヤンキー集合がマイルドヤンキー集合に挟まれている事についての説明する。受容性が高い場合は攻撃性が表れにくいが、拒絶性が高まればその分だけ攻撃性は表れやすくなる。この受容性が高いから攻撃性が表れにくい集団をマイルドヤンキー第一群と呼ばせてもらう。そして逆に受容性が低くなりすぎると拒絶性が高まっても攻撃性は表れにくくなる。結果としてヤンキー集団の中心位置が最も攻撃性が表れやすいのである。この受容性が低いから攻撃性が表れにくい集団をマイルドヤンキー第二群と呼びたい。ちなみに群番号で呼ぶのはいい呼び名を思いつかなかったからである。
なお萌えオタクを含めたマイルドヤンキー型オタクは第一群にも第二群にも含まれてると考えられるが、純粋オタクと近い位置にいる第二群側の方がその比率は高くなると予測される。最もその差がどれくらいなのかは現状では予測すらついていない。正直言って第一群と第二群の差はまったく不明瞭なのである。その辺りはもっと研究が必要であろう。
サブカルは優等生の発展型でありつつ、ヤンキーともある種の親和性が見られる。たとえば思想のサブカルであるところの反政府思想をもつ「しばき隊」をみれば、ヤンキーとの親和性は一目瞭然であろう。
そして純粋オタクと自閉症の類似性は先に示したとおりで、オタクというのはいわば自閉症の一歩手前か片足を突っ込んでいる状態であるといえる。
なおオタク論についての詳しいことは以前のブログ記事か、あるいは改定済み電子書籍版を参照してほしい。
BL二段階仮説
女性向け作品には男性同士の友情を超えた強すぎる思いを恋愛とみなして描くジャンルが存在する。いわゆるボーイズラブである。一次創作でもその手の作品には人気があるが特に既存作品をBlとして描く二次創作に人気が集まっているように見える。
ではなぜ女性にとってBLというものがそれほど大切なのだろうか。一般的にBL趣味とは恋愛資本主義に迎合できない女性が自らの女性性を放棄することで同調圧力から自由になろうとする行為と言われることが多い。そもそも女性という生き物は男性からの性的な視線を意識せざるをえない場合が多い。女性が大好きな化粧やファッションなども女性的な価値を高めるためのものであり、結局は男性が女性を品定めする価値観の上に成り立っている。そういう男性主権の価値観が支配している現実に納得できない女性が作品上で男性のみを一方的に性的に消費することで、現実社会へ反抗心を昇華している…というのがいままでのBL解釈だったのである。だがその考え方では男女の異性愛も男性同士の恋愛も同じくらい大好きだという層の説明がつかない。異性愛への許容度が高まればその分同性愛への熱意も失われないと説明がつかないのである。ゆえに先の理論ではカバーできない範囲においては別の理論が働いている可能性を考えなければならない。
BLにおいては立場の上下というものが重要であるという意見を目にしたことがある。BLではどちらが上位の立場に立つかが明確である場合が圧倒的に多い。いわゆる「攻め」というものが「受け」より上位にいる場合が多いのである。もちろん「誘い受け」という「攻め」をコントロール下においている特殊な場合もあるのだが、これは一見下位にいる者の方が本質的には立場が上という状態を意味するわけで上下関係がないわけではない。そして「リバース」という状態は「受け」「攻め」が入れ替わる事を示すが、この場合も上位と下位が入れ替るわけで、上位と下位が存在しないような平等状態を意味しないのである。
なお現実の男性において立場の上下とはコミュニティー内での序列関係を意味する。だが性差の本質を見極めた後で考えるなら、男性の序列に拘る思いを完全に理解できる女性はほとんど存在しないと考えた方がいいだろう。ではなぜBL好きは男性の序列に拘るのか。ここで思い出さなければならないのが女性にとって重要なのは共感だという事である。一般的に女性にとって序列付けというものは本質的に共感できないものであり、恋愛は共感できるものである。ならば男性同士の序列関係を恋愛にすげ替えてしまえばどうだろうか。つまり序列関係への拘りを愛情の発露と思い込んでしまえば、男性の序列関係が女性にとって理解できる、共感可能なものにすり変わるのである。もちろん実際には序列関係はあくまでもパワーバランスなのであって恋愛関係を含んでいることはまずない。だがその思い込みによって女性の共感可能領域は大幅に広がるのである。女性性の本質は受容性である以上、女性はできることなら男性を理解したいという思いを持っていることが多いはずである。序列を恋愛と勘違いすることによって女性は男性を理解し受容した気分になることができて、そしてそれが女性の幸福感の向上につながるのである。もちろんこの序列を恋愛ととらえることは誤解ではあるのだが、実在の人物をモデルにしていない場合なら特に実害はないだろう。だれにも迷惑をかけずに見かけ上の受容領域が増えることで女性が幸福な気分になるのであれば、それは十分意味のあることだと考えられる。
なお当方は先の男性からの性的消費への反抗心という面がBLに影響しているという考え方を全否定する気はない。つまりBLには二段階存在し、第一段階として男性どうしの序列へのこだわりを恋愛に置き換えることで男性を受容した気分になろうとする状態、第二段階として、男性からの一方的な性的消費への反抗心を満たそうとする状態があるという考え方である。第一段階の者は男性同士の恋愛描写さえあれば満足で、性描写はそれほど必要とはしない人が多く、男女異性愛描写にも寛容な場合が多い。そして第二段階の場合は男性同士の性描写を強く求める人が多く、男女異性愛描写を好まない人が多いという予測が成り立つ。もちろんこれは傾向の話であり、第二段階の女性が全員異性愛否定派ということはありえないだろうし、第一段階の人で男性同士の性描写を求めていてもそれが特別に異常なことというわけではない。
女性とゲームと人形遊び
女性はゲーム性にこだわらないという話がある。そもそもゲーム性の本質はルールを読み解き最適解に近づく方法を模索することである。ようするにこれもまたシステム化に他ならない。つまり女性というのは本質的にゲームを好まない人が多いということである。なお女性が好むのはパズルゲームだという結果を出したアンケートもあるが、この場合のパズルゲームはLINEゲームなどのゲーム性の低いものであり、言ってみれば暇つぶしを目的としたものでしかない。
だがパズルの他にも女性に人気のあるゲームは存在する。たとえば乙女ゲームと呼ばれる、女性主人公とイケメン男性群との恋愛を主題としたアドベンチャーゲームである。だがこういうストーリー主導型のアドベンチャー。はいうなれば小説の進化形であり、本質的なゲーム性は乏しい場合が多い。脱出ゲームなどの謎解きを主軸にしたタイプのアドベンチャーが女性に人気がでたという話は聞いたことがなく。故に乙女ゲームを求めている層は単にインタラクティブな物語を求めているにすぎないと考えた方がいいだろう。
あと女性ウケしたゲームの特殊事例の1つとして『ファイアーエムブレム』(以下『FE』)という任天堂のSLGが挙げられる。このゲームは二次創作においては女性向けジャンルという認識が一般的なのである。そもそもSLGというのはゲーム性の塊のようなものであり、男性ゲーマーでも手を出さないものがいるほどである。ではなぜそんな『FE』は女性受けしたのだろうか。『FE』の特殊性として子孫を作って能力を引き継ぐという要素が挙げられる。つまりキャラクター同士を結婚させられるのである。『FE』では兵士として扱うキャラクターには一人ひとり名前と顔があるが人格はほとんど設定されていない。ここで思い出さなければならないのが女の子はお人形遊びが好きだということである。人形に自ら考えた架空の人格をあたえて遊ぶのは女の子にとってあたりまえの経験である。これは自分のおもちゃであるお人形をより共感できる存在に昇華させようとする行為であると考えられる。この場合の共感度の深さは言ってみれば愛情である。女の子は共感によって自分のおもちゃをより愛せるようになるのである。このお人形遊びに用いる架空の人格投与は人形にだけ使われるものではなく、人格設定のない、あるいは不十分なキャラクターすべてに対して行われる可能性があり、女性の二次創作の根源と言ってもいいだろう。つまり先の『FE』でも女性は自分が好きなように人格設定をすることで、自分が共感しやすいキャラクターを作り出すというお人形遊びと同様なことが行われているのである。そこから考えれば、一般的に女性にとってゲーム性は基本不要なものであるが、お人形遊びの素材提供力が優秀なゲームはゲーム性が高くても許容しやすくなる…という仮説が導かれる。
自閉症と純粋な性欲
自閉症患者は自分の感情を内省することすら難しい場合があるという。つまり自閉症というのは他人の感情はおろか自分の感情ですらどうでもいい状態に近づいていると考えられるのである。自閉症が極端な男性型脳だということを考えれば一般の男性でも自分の感情はどうでもいいと思える場合が存在する可能性がある。女性が好きな相手としかセックスしたくないとする人が多いのに対し、男性の場合は好きでもない相手と性行為が可能な人が多いのは、自分の恋愛感情と性行為を切り離して考えられるからであり、これは言ってみれば自分の中で感情を切り離しているということでもある。
さらに言えばテストステロン量と性欲は相関していて、男性の場合は女性より10倍から20倍ほど分泌されると言われ、それは男性の方が女性よりも圧倒的に性欲が強い理由の1つとされている。なお中年女性の性欲が高いのは女性ホルモン量が減少した結果、相対的に男性ホルモン量が増加するためだと考えられている。単順に考えれば、性欲がより強ければ強いほど、感情を切り離した性行為が容易になると見なせるわけで、性欲の強い男性は女性よりも感情を伴わないセックスを平気で行いやすい事を証明しているといえるだろう。
男性にとって自分の中で感情を切り離せる場合があり、それが性欲に絡むときに顕著になるというのなら、アダルトビデオやエロ同人誌などを鑑賞するときにもまた同様に感情を切り離していると考えた方がいいだろう。ここから考えを進めていくと、男性はエロ同人誌を見るとき、自分から感情を切り離すことで、主人公と自分を同一視しやすくしているという考え方ができる。さらに逆方向から主人公の感情を切り捨てるという方向性もある。そしてそのどちらも行う場合そこにあるのは感情を伴わない純粋な性欲だけになるわけである。
女性の場合は感情を容易には切り離せない。ゆえに恋愛関係の二人の間に割り込むことがやりづらい。これは女性が自分だけでなく物語の登場人物から感情を切り捨てることもできないことから来ていて、結果として女性にとってのポルノとは他人のセックスをのぞき見て行為者がどれくらいの幸福感や性感を得ているか想像することで相手への共感としているものである可能性が高い。いわゆる夢小説という自分を主人公にした二次創作が存在するが、これは女性が登場人物の感情を切り捨てないようにしつつ自分のとって都合がいい展開を描くための手法であるといえるだろう。
女性の働き方
スーザン・ピンカーによると現代女性はかなり明確に、3つの集団に分かれるという。まず専業主婦を望む「家庭中心型」が20%、そしてキャリアを優先する「仕事中心型」が20%、残り60が「適応型」になるという。
「仕事中心型」というのキャリア志向の女性は、女性であるための不利益をほとんど感じることはない。男性と同じ資格を持ち、同じ時間働けば、同じ報酬を受け取ることができるという。つまり男性とまったく同じ生き方ができる女性でなのである。
「適応型」である過半数の女性は育児とキャリアを両立させるために最適の形を探して、勤務時間や職種の異なるさまざまな仕事を渡り歩く場合が多い。彼女たちは家族のニーズと自分自身の価値観に合わせて仕事の仕方を調整する。この傾向は、スウェーデンやノルウェーのような進歩的な社会でもアメリカと同じように見られる。適応型の女性は最初から確固としてプランを持たないか、あるいは自分が生んだ赤ん坊の顔を見た時にプランを変えることを選ぶという。結局パートタイマーで働くことになったり、転職を繰り返したり、家族を優先させなければつけたはずの地位より手前のポストにとどまったりするケースが少なくない。
こうした女性の生き方の多様性を「選好理論」と呼ぶ。それはすべての女性が同じことを望むわけではないということ、そして選択の自由を与えられた時、男性と同じ道を選ぶ女性はおよそ二割しか居ないことを示しているという。つまり残りの八割は家族などのコミュニティー内で互いに共感し合う時間を仕事よりも大切なものだと考えるのである。ようするに男性と同じ生き方をして幸せに近づける女性は2割しか存在せず、残りの8割は幸せから遠ざかるのである。
なお女性は所属する集団から助言者役を求められる事もある。相談相手に女性を求めるというのは性差の特性だけでなく社会習慣による先入観も混じってる可能性もあるが、ともかくそのせいで本来の業務に支障をきたした研究者が仕事をやめ、教師になった事例もあるという。教師ならば生徒のメンター役をこなすことも仕事のうちであるといえる。こういう他者との積極的なコミュニケーションが重要になる仕事は多くの女性に向いている言えるだろう。たとえば教師、カウンセラー、看護師、介護士などである。
ちなみにとある経営コンサルタントが担当した企業において、高負担で高報酬、一日十四時間労働で週末勤務もこなすモーレツな働き方をする「サメ派」と、バランスの取れた人間関係重視の働き方をしたい「カレイ派」を統合しようと試みたが、結果として会社の内部崩壊を招いてしまったという。彼はこの結果から2つの働き方は共存し得ないものだと結論づけた。
生命力の差と分布ムラ
男の胎児は数としては女児より多いが母体のストレスの影響を受けやすい。そして女児は男児に比べ、受胎直後の不安定な時期を乗り切る力も強く、分娩時のトラブルの影響も受けにくい。そして障害や早期胎児死亡に見舞われる率も低めである。さらに環境や社会的条件が悪化すれば、より脆弱な男の胎児の方が死亡率は高くなるといわれている。そもそも男性ホルモンの一種であるテストステロン値が高くなると免疫力も低下してしまう。このことは男性の方がガンなどの慢性疾患の発症率が高いことに何らかの関係性があると考えられている。
男性はもともとの寿命が女性よりも短い。そのうえさらに危険なリスクを好むがゆえ事故などで死んでしまう確率も女性より高い。このようにさまざまな面から見て男性は女性よりも生命として脆弱なのである。
優等生志向が強く忍耐強い女子は学業でも男子より優秀である。アメリカでは男子が特殊学級に入る比率は女子の三倍、落第は二倍、高校中退者は三倍になるという。ただ男子は女子よりも成績のばらつきが多く、成績優秀者だけ切り取れば男子の方が多く、劣等生だけしても男子の方が多い。つまり女子は平均値に偏りがちだが、男子には天才もバカも多いのである。
ちなみに今のアメリカの大学入試では女子の方の合格ラインを男子より高めにしないとキャンパスが女子大化してしまうという。男女平等を実現するために男女比を均等にすべきという考え方が女子の大学入学を男子より難しくしているのである。
なお、男子の自制心などの心理的発達は、幼年期こそ女子に劣るものの思春期をへるうちに追いつくという。身長も12歳あたりでは女子の方が大きいが、20歳では男子の方が高いのが普通である。つまり男子は大器晩成型の可能性ものである。
ムラが大きく危険を好み、他人に対して攻撃的でありながら、生命力の弱い男性について考える前に、まず赤ん坊を産んで育てる必要がある女性について考える必要がある。女性は強い生命力と温厚さと高い感情読解力を兼ね備えた存在であった方が子孫を残しやすい。安定性もあって個体のムラがすくない方がいいだろう。逆に男性は女性ほどの安定性は必要ない。高い能力を示したオスの遺伝子だけ残ればいいのだから、男性はむしろ遺伝子の多様性を継承するために個体のムラは大きき方がいい。狩りや群れの序列争いなどで危険に挑み、そこで大きな結果を出すことでメスからの評価が上がるのなら、オスはより危険なことに挑むように進化していくのが必然である。そこから考えると哺乳類のオスとメスは見事にその役割を分担しているの事がわかる。
キブツ共同体について
20世紀初頭に確立したイスラエルのキブツという共同体は性別や社会階級による障壁を完全になくしたユートピアを目指して作られたという。そこでは男も女も与えられた仕事は何でもすることを期待されて、住民たちも自らがそれを望んでいると考えていた。子どもは親とは別に寄宿舎で生活し、訓練した保育士が男女を区別しない教育を行う。テレビが普及しても利用は制限された。親と子どもは食事と就寝前の時間のみを子どもと過ごすが、食事の用意は共同で洗濯も業者に委託するので家事や育児をする必要性はない。
そういうキブツでの生活を過ごすうちにはやがて性差は解消し、あらゆる職業が男女半々ずつになる未来が訪れると信じられていたが、現実は真逆だった。四世代が経過しても女性の七割から八割は人間を相手にする仕事、特に保育や教育分野に集まり、男性の多くは農作業や工場、建設、営繕関係の仕事を選んだという。そしてキブツでの生活が長いほど性別役割を分担する傾向が強い。キブツ育ちの女性で建設の仕事を選ぶ女性はほとんどおらず、農業や工業分野で働く女性は16%未満だった。
男の方も保育士を選ぶ者は一人もおらず、小学校教師を選んだ男性も18%に満たなかった。そして男女は別々のコミュニティーで生活し、異性と顔を合わせるのは自宅の家族のみという人も多いという。キブツにおとずれた研究者はこの男女別のコミュニティーをまるで2つの別の村のようだと語っている。このように性差を無くすことを目指して作られたコミュニティーが実際には男女の性差を明確に示すことになったのである。
傷つかないようにするよりも
以前のブログ記事やtogetterまとめでは男女差の根源を狩猟本能に求めていたが、これは根本的に間違っていたと認めるしか無い。よく野生動物に餌を与えると狩りができなくなるから与えてはいけないと言われているが、これは生物にとって狩猟本能というものがそれほど重要度が高くないことを意味していると考えられる。本当に狩猟本能の重要度が高いものであれば餌を与えようと狩りをしなくなったりはしないはずだろう。となれば男女差の根源は子孫を生み出すための生殖活動や育児にあると考えた方がいいはずである。
そして以前のまとめにおいて当方はSNSを使う女性は基本鍵アカウントにした方がよいのでという提案をした件についても考えを改めている。以下に今の考えを述べる。
もともと女性は傷つきやすい生き物であり、それはリアルでもネットでも代わりはない。リアルで傷つく女性を慰めるのが女性コミュニティーの役割ならば、ネットで傷ついた女性を癒やすのも女性コミュニティーの役割のはずである。
そもそも人を傷つけないようにしたり自分が傷つかないようにすることよりも身近に傷ついた人がいる場合はその人を支えようとすることが大事なのである。
傷ついても支えてくれる人がちゃんといることを経験することによって人はたとえ傷ついても倒れにくくなっていく。傷ついた人が倒れないように支えることこそが一番大切なのである。そこから考えれば女性が傷つかないように予防策を講じるよりも傷ついた後に慰めを与える存在を確保させるべきだということになる。
それは自分を強く承認してくれるコミュニティーを見つけ出す事が重要ということなのだが、その場合できればネット越しでないリアルな関係が望ましいだろう。直接触れ合って慰める方が圧倒的に効率が良いからである。そしてもしコミュニティー維持のために自分を押さえ込んでいる部分があるのなら、もっと自分にあったコミュニティーを探す必要があるという事になる。
女性にとって一番重要なのは共感であって、その要となるのは感情である。女性というのは感情論でものを語ることが多く、それは時に、論理に基づく正論とは真逆なものになることがある。むしろそうなる場合の方が多いと考えられるかもしれない。ようするに正論というのは女性の共感を阻害する事もあるわけで、当然共感を阻害された女性はその正論に反感を覚え、人によっては反対意見を挙げることになる。再三述べているが女性にとって共感とそれによる承認はそれだけ重要なものなのである。
だがその場合に女性が挙げる反対意見もまた感情論にすぎない場合が多く、自身の感情論に共感してくれる論客がいないことによってさらに傷つくことになる。そのように正論というのはひたすらに女性を傷つける事がある。そして当然ながら傷ついた女性を慰めるのも共感コミュニティーの役割であり、それゆえ女性には自分を深く承認してくれるコミュニティーが必要になるのである。
ネットの荒波はただでさえ傷つきやすい女性をひたすら傷つけかねない。もしSNSを使うのなら傷ついた時にしっかり自分を慰めてくれる相手が必要ということである。もちろんそれ以前の話として、まず一般的な女性性の本質を理解することが第一であり、その次に自分がどの程度一般的な女性性と一致し、どの程度ずれているかを自覚することも大切であると言えるだろう。
受容性は女性の本質であるが、受容の基準が自分の感情だけだとしたら、それは場合によってはひたすら独善的なものになりかねない。特に理屈に秀でているケースも多い男性の意見を問答無用で切り捨てるなら、そこに待つのは感情論が支配する世界である。そこに待つのは、たとえば凶悪犯でも裁判官の同情を買うことができたら無罪になるような人治国家である。
なお男性性が支配する社会は情に流されずにシステム的に運営されるものを意味し、それを突き詰めていけば効率のみを重視したディストピアになる。それはつまり社会がそこまで達しないようにするためには女性性というブレーキが必要だということを意味している。何事にもバランスが大切なのである。
最後に
性差を認めることはさらなる男女差別につながると考える人もいるであろう。だが性差を認めずに女性に男性のようになることを強要することは、むしろ大きな齟齬を生み出すもとになると考えられる。まず正しい性差を認め、男女が互いの特性を尊重しあうことこそが双方が幸福にたどり着くための第一歩であろう。もちろん一般的な男性像から外れている男性も、同様に女性の一般像とは異なる女性も、それぞれに同じように尊重されなくてはならない。多様性を認めるということは正解以外の存在を許そうとしない事を意味しないのである。
もちろん正しい性差を広めることでそれをいわれのない差別に利用しようとする人は出てくるだろう。その場合はそういう人を個別に批判していくしか無い。自分のいる側こそが正しいのだと盲信する人はどこにでもいるが、そういう相手は時間をかけて説得していくしか方法はない。この手の問題を一朝一夕に解決することは不可能なのである。なお自分のいる側こそが正しいという盲信はどちらかというと女性の方に発生しやすい。それは根拠をともなわない共感を最重要なものとして生きている女性が多いからである。
参考文献
テーマ : ジェンダー・セクシュアリティ - ジャンル : 心と身体
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
(注意)当記事は一連の記事の一部となっております。順番に辿っていってください。
男女の性差について1.性差の実例
男女の性差について2.共感とシステム化、その本質について
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
男女の性差について5.オタク論その他
4.コミュニティーと承認についての仮説
本章では男性コミュニティーと女性コミュニティーがそれぞれの性においてどのような役割や意味をもっているか。そして男性と女性の自己承認の差異についての仮説を立てていく。もちろん仮説なので証明された事実というわけではない。
前提仮説:感情と議論
本筋に入る前に重要な仮説を打ち立てておきたい。男性が女性よりも感情を切り離した議論が得意な理由についてである。コーエンがいうには自閉症児は自分の心の状態を所有していても内省ができないらしい。自分の心の内省ができないということは自分の心のあり方について考えることができていないということである。そこから考えるに、人間は他人の心との比較なしに自身のを理解することはできないという推論が成り立ち、そしてそれは自閉症児にとっては自分の心ですらよくわからないものでしかないということも意味する。そしてそれは自閉症児にとっての自分の心の重要性は通常の男児よりも低いものになるという意味と同義である。曖昧な感情というのは刹那のものであって持続するわけではない。持続しない刹那的な感情は明確な意識よりも重要度が低くて当然なのである。
そして先に示したように超男性型脳が自閉症患者のものを意味するというなら、自閉症に近づくほど男性性が強くなるということであり、それは男性性が強くなるほど、少しずつではあるが自分自身にとっての、その心の重要性が失われていくという事を意味する。それは男性性の本質は人間嫌いであるという仮説と一致する。いきすぎた人間嫌いは自分すら嫌うものだからである。そしてその考え方は純粋なオタクは内気で自己嫌悪しがちだという肌感覚とも重なっている。
なお、男性性が高まるほど自分の感情の重要性が下がるということは、感情を切り離した議論が得意になっていくということにつながる。ようは自己嫌悪力の高い人間ほどドライで冷酷な考え方をし易いわけである。もちろんこの自分の感情を切り離しやすくなるという現象は男性性がかなり高めにならないと明確な形で表れてこない。いわゆるヤンキーと呼ばれる人たちは受容性もそれなりにあるが拒絶性はそれ以上に高いから他者への攻撃性を発揮すると考えられる。そこか考えれば男性性がヤンキーレベルの段階こそ、男女含めて一番自分の感情を切り離すことが苦手な状態だと言えるだろう。そもそも女性性が高くなるほど自我は薄まっていくので、逆に女性性がかなり高めになっても自分の感情を切り離すことがやりやすくなる。ただその段階での女性は他人の感情の重要性が高くなるので、自分の感情は切り捨てれても他人の感情は切り捨てられない。つまり他人の感情に惑わされた議論しかできなくなりがちになるのである。
女性の自我が男性よりも弱いものになりがちなのは、女性が自身の成功の原因を外在化し、失敗の原因を内在化しやすいことからも導き出せる。女性は成功をたまたま偶然が重なっただけのマグレと考えがちであるし、失敗の原因は常に自分にあると思い込みがちである。なお女性が失敗の原因を内在化しすぎることをインポスター症候群と呼ぶ。そもそも失敗の内在化はさらなる努力を生み出す元になることも多く、必ずしも悪いこととは言い切れない。だがそれも行きすぎれば人生にとって障害となりえてしまうのである。ちなみに男性の場合は一般的に成功を内在化、失敗を外在化しやすく、一般的女性とは正反対になる。
なお、女性が感情を切り離した議論を苦手とする場合が多いことはもう1つ別方向からも説明できるが、これについては後述する。
コミュニティーにおける序列
子どもというのはかなり幼い段階から男の子は同じ男の子、女の子は同じ女の子と遊びたがるという。つまりは人間はもともと同性同士でコミュニティーを形成したがり、異性側のコミュニティーに関わりたがる人間は少ない事を意味している。
一般的に女性よりも攻撃的である男性はコミュニティー内での序列に拘る。これは社会秩序をシステムとしてとらえ、それを掌握しようとする行為であるとも言える。そして序列にこだわるがゆえに弱みを他者に見られるのを避け、自分をより大きく見せようとしたがる。男性コミュニティーにとって自分の優位性を示そうとすることは当たり前のことであり、コミュニティー内での攻撃合戦もある程度は許容される。なお、たまに自虐的に弱さをアピールする男性もいるが、彼らの多くは他人から「思ったほど弱くはない」と評価されるのを期待しているのであって、弱さを非難されるのを期待しているわけではない。
そんな男性にとっても、自身の期待ほど序列が高くないという場合は多々存在する…というかむしろそちらの場合の方が多いであろう。その場合男性が取る行動の方針はいくつかに限られている。
①まず序列を上げるために努力する
②次に今のコミュニティーを離れ、別のコミュニティーでの序列に期待する。
③次にまったく別の評価軸に拘るようになる
この場合②と③は両立することが多い。コミュニティーを移しても以前のものと同じ評価軸をもっていたら、また評価されない可能性があるからである。
なお、いわゆるオタク趣味をもつ人間の中にはコミュニティー内で認められないからオタク趣味に逃げ込んできたタイプも存在する。そしていわゆる「萌え」というのは純粋オタクの教養主義的評価軸が受け入れられない者達が打ち出した新しい評価軸である。
ついでに言うとヤンキーというのは優等生が認められる評価軸が受け入れられない人間がなるものであり、マイルドヤンキーは優等生の評価軸もヤンキーの価値観も受け入れられない人間がなるものである。
ここから考えると男性はコミュニティーに認められない場合、認められようと努力するか、あるいは自分個人がコミュニティーを離れようとする事が多いだろう。なお純粋オタクの場合、他者に対しての関心が薄いため、必ずしもコミュニティーに参加しようとするとは限らない。
対して女性同士のコミュニティーでは平等性が何よりも重視される。たとえ女性であっても男性ホルモンがまったく分泌されないわけではない。コミュニティー内で他者に対して攻撃をする女性が出てくることもある。そして自身に対する攻撃を受け入れられるほど受容性が高い女性はそれほど多くはないであろう。自身への攻撃が受け入れられないのなら反撃し、攻撃者をコミュニティーから追い出すか、あるいは自分がコミュニティーを離脱するしか無い。結果としてコミュニティー内部で攻撃性を示す女性の存在はその安定性を脅かすことになる。そして男性のようにコミュニティーで序列を決めることは、ある意味序列が高いものから低いものへの攻撃であり、女性にとって序列付は天敵とも言えるのである。もともと女性性というのは温和さでもあり序列を付けたがる女性もそれほど多くはないのであるが。
ともあれ女性コミュニティーにとって序列付けがよくないものである以上、そこでは平等性が何よりも重視される。そこでは自分一人だけ成功者になることは許されにくい。男性向け漫画では成功体験が最大のテーマなのに女性向けではそれが軽視されがちなのは、女性にとってコミュニティーを脅かすタブーだからである。
極端な女性型脳である聖女であれば、正反対の意見も同時に受け入れられるはずであるが、一般的な女性は自分と相容れない意見は受け入れられない。では女性が自分と真逆の価値観と接した時どういう行動を取るのだろうか。
それについて説明する前にまず男性の場合について考えてみよう。一般的な男性が真逆の価値観と接した時、それはいずれ自分が屈服させたい敵対価値観として認識することになる。極端な男性型やそれに近い場合はともかく、多くの男性にとっては男性性の高さは攻撃性の高さを意味する場合が多いのである。そしてもちろんこの場合において相手を屈服させる事ができる保証はなく、あくまでも希望でしかない。だが自分と異なる価値観すべてを憎み続けることはできない。ゆえに男性は自身の敵対価値観についてその重要さをランキングし、重要度の低い敵対価値観については忘れ去ることになる。
そして男性が敵対価値観と正面から衝突することになった場合、重要度の高いものとの衝突は男性にとっていずれ訪れることでしかなく、その覚悟はできていることになる。逆に重要度の低い価値観とぶつかった時は覚悟こそでできていないものの精神的なダメージも低い場合が多い。もちろん重要度を低く見積もっていたものとの衝突が予想外の正論を含んでいたために意外な大ダメージを負ってしまうこともあるが、それはあくまでも見積もりの失敗によるものである。ちなみに純粋オタクの場合は、他者に対する関心が薄いがゆえに重要度の高い敵対価値観をほとんど作らず、結果重要度が低い認定ばかりにしてしまう存在だとみなせるだろう。
ともあれ価値観のぶつかり合いで相手を屈服させられれば、男性にとっては新たな成功体験であり、自分自身や他人からの評価を高めてくれる要素になる。そして自己評価を高めることは言うなれば自己承認を行うのと同義であり、他人から評価されるということは他者からの承認を得るということでもある。
逆に相手に屈服させられた場合、男性が取る行動は二通り考えられるだろう。それは相手を自分よりもある意味格上の存在とし尊敬するか、あるいは相手との接点をすべて切り離し今後の接触を無くすかのどちらかである。おそらくその両方も封じられると人間は混乱し自分を見失うと予測される。よく見かける自分が負けたことを絶対に認めない人間は、そうならないために防衛策をとっているとも考えられるだろう。
そして自分と相手がほぼ互角であることを認めざるを得なくなった場合、男性は相手をライバルと認め、関係性が複雑化し、安易に敵とみなせなくなる。少年漫画などでは、敵だった相手が決着がつかないうちから仲間っぽくなってしまう展開は王道だが、これに一致するケースだと言えるだろう。そして決着がついた場合でも安易に絶対的な負けを認めようとしない場合はもまたこれに類似するケースだと見なすことができるかもしれない。
女性コミュニティーと対立価値観
さて男性が真逆の価値観を屈服させたいと思うのなら、女性はどうなのか。男性との対称性を考えれば女性は真逆の価値観を受け入れようとしてもおかしくはなさそうなのだが、実際にはそうはいかない。自分のアイデンティティーを脅かすことになるからである。
では女性は真逆の価値観に対してどう接するのか。その答えは無視である。真逆の価値観にたいし論理立てて自分の正当性を示そうとする行為は相手を屈服させ序列を明確にしようとする男性的行為であり、平等を重んじる女性コミュニティー内でそんなことを起こせば、下手をすると自分がコミュニティーから除外されかねない。もちろんコミュニティー内からコミュニティー外に対して行う分には自身のコミュニティーを脅かすことはないからこの限りではないのであるが。おそらく女性コミュニティーが外部のコミュニティーへの攻撃を許容するとしたらコミュニティー内部の人間の多くが攻撃を望んでいる時だけだろう。ちなみにこの状態は男性対女性という対立軸の場合に発生しやすくなる。
ともあれそこまで切迫した状態にならない限り女性は対立価値観の存在に対し無視で対応することが多い。なお女性が無視した真逆の価値観というものは女性にとってこの世に存在しないも同義であり、その無視した価値観の分、女性の視野というのは虫食い状態になる。
その結果女性の視野のトータルとしての面積は一般的男性よりも小さいものになりがちになる。男性社会の中での女性はその分いろいろな男性要素と接しなければならず、見かけ上の視野は男性よりも広いのが普通なのであるが、自分と異なる意見を無視によって発生する虫食い部分が多いため、男性よりも総合的な視野は狭くなりがちなのである。もちろん男性も敵対性の低い価値観は無視するから虫食いは発生していわけではあるが、自分と真逆な価値観ほど敵として覚えておく事になるので、たとえ無視する量が多かったとしてもあまり視野は狭くならない。なお当然ながらここで言うところの視野は視覚範囲のことではなく自分と異なる価値観の存在認識についてを意味する。実際の視覚範囲については女性の方が男性よりも広範囲である場合が多いらしい。
では女性が無視していたはずの自分と真逆な価値観とぶつからざるを得なくなった場合どうなるのか。まず自分にとってどうでもいい価値観とぶつかったとしてもたいしてダメージにはならない。これは男女とも同じである。だが女性は受容性が高めであるがゆえに男性と違って自分にとってどうでもいい価値観でも受け入れられる。ゆえに男性に比べてどうでもいい価値観と衝突する可能性はその分低くなるはずである。
基本的に自分と真逆な価値観とぶつかった時、女性はコミュニティー内部に慰めを求める事が多い。この慰めという行為は女性コミュニティーにとって最も重要な要素である。相手を屈服させることを是とせず、相手を受容することが女性性の本質なのだから、当然苦しんだり悩んだりしている相手も受容するのが基本である。そしてその苦しんだり悩んだりいている人間にとって一番の処方箋は他者から共感されることなのである。この慰めという行為も一種の承認であり、女性コミュニティーは慰めを含めた共感による相互承認のために存在していると言っていいだろう。
なお男性の場合、同じ男性で構成されたコミュニティーに対して慰めを求めることは少ない。それは慰めを求めることが弱みを見せることと同義であり、自分の序列を下げる行為だからである。実際に男性が他の男に慰めを求めるケースは相手の男の方が自分よりも格上であることが明確な場合がほとんどであろう。なお恋人や妻に対して慰めを求める男も実在するが、その場合は相手の女性に母親役を演じてほしがっているということを意味している。ちなみに他者に慰めを求めない男は逃げ場がない分、女性よりストレスが蓄積しやすく、それゆえ最終的に自殺という方向に進むケースが女性よりも多くなる。
話を女性についてに戻そう。同一の相手から女性コミュニティー内の人間が多数傷つけられた場合、そのコミュニティーはその相手を敵と見なすことになる。これは男性でも同じであるが、男性の場合は傷つけられた者の序列が高ければ、傷つけた相手を敵と見なすことになる。そして傷つけられた者の序列が低い場合はコミュニティーを維持するためのメンツのコストなどを算出し、敵対行動を取るかどうかを決定することになる。話を女性に戻すと、女性の場合は傷つけられた者が少数なら絶対に反撃しないかというとそうとは限らない。傷つけられた者に深く共感する者が多ければ、それは多数の人間が傷つけられたとほぼ同義であり、反撃に及ぶに値する理由になるだろう。
一般的な女性は相手を言い負かし屈服させることを是としていない。そして感情こそが重要であり理屈は二の次である。ゆえにたいていの女性にとって議論は大の苦手項目である。結果として、女性コミュニティーが対立価値観に反撃するときは多くの場合ひたすら自分の感情をむき出しにし続けることになる。そして論争の終わりは単に対立価値観との衝突による疲弊が限界を超えた状態にたどり着いたというだけであり、本質的な解決に至ることは少ない。
とある研究では女性は悩んだり苦しんだりする頻度が男性より三割高いというデータが出ている。それだけ女性という生き物は傷つきやすいのである。そして基本的に女性同士の価値観の衝突というものは両者ともに傷ついて疲弊するだけであり、何も生み出さない場合が多い。ゆえに女性同士が衝突して傷つけ合わないようにする価値観による住み分けが大切になるのである。女性は本質的に一対一の関係性を求めることが多く、親友だけに限定した少人数のコミュニティーを好む傾向があると言われている。これは自分の価値観と一致する部分がより多い相手とだけ関わろうとすることで価値観の衝突をさけようとしていると考えられる。インターネット上にて女性二次創作者の運営するホームページに作品傾向の注意書きが描かれることが男性二次創作者の場合よりも多いのは、それだけ衝突を避けることが重要だということの証拠であろう。
女性コミュニティー内部での対立と分断
さて女性が価値観の衝突をさけようと注意しているとして、不意に予想外の衝突は起こりうる。特に、無視したわけではない、自分にとって重要な部分で衝突が発生するとそのダメージは甚大なものになる。たとえば特定作品のファンがその登場人物同士を恋愛関係に恋愛関係にした二次創作をする場合を仮定する。どちらのキャラが恋愛に積極的かという解釈に絶対の自信を持っている場合、真逆の解釈は受け入れられないものになることもありうる。
つまり、本来はその特定作品のファンは本来自分と共感可能な存在のはずなのに、自分とは共感不可能だと言われてしまうことに同義なるわけである。これは言ってみればコミュニティー分断の危機であり、ひょっとすると自分が孤立してしまうかもしれない可能性も示唆している。
なお女性による二次創作におけるカップリング論争は、カップリングが違えば別ジャンルという認識の普及と衝突回避のための相互努力の結果により、現在では昔に比べそれが発生する機会は大幅に少なくなっている。ようするに「身内」ではなく「無視すべき外様」という認識に変わっていったのである。
何度も言うが一般的に女性は理屈を考えることが苦手である。ゆえに今の自分に問題がないかどうかを考えることもまた苦手である。それゆえに女性は他者から今のままで問題がないことを示してほしいと願っている。つまりは女性は基本的に他者からの承認がないと安心して生きていけないのである。なお、男性においてもヤンキーやマイルドヤンキーは他者からの承認を重要なものと見なしているのだが、女性と比べるとその重要度は明らかに落ちるだろう。そして共感とは言ってみれば理屈を伴わない承認である。女性同士の共感は互いを承認し合う効果を持っているのである。
なお既婚女性や恋人のいる場合はパートナーから承認してもらうこともできるのであるが、独り身の場合はそうはいかない。家族や友人から承認をもらうしかない。そして家族や友人関係もまた、ある種のコミュニティーである。なお、この家族というコミュニティーの場合は分断が発生しづらいという特性があるため、かなり特殊であり、それゆえ他のコミュニティーと同列には扱えない。とりあえず本稿では原則的に除外して考えることにする。
女性コミュニティーにおいて分断が発生すると、参加していた女性にとって人数の減少分だけ手に入る承認も少なくなる。さらにいえばコミュニティー分断によって傷つく人がたくさん出てきて他者に共感を向けている余裕がなくなる人もたくさん出てくるだろう。コミュニティーの分断はそれ自身がもつ承認メカニズムを狂わせたり弱めたりすることになるのである。ただコミュニティーが分断されることによってその細分化が自分にとってより最適な状態を生み出すことになるかもしれない。つまりより自分に近い価値観の人間だけになることによって、より深い共感、すなわちより強い承認が手に入る状態である。そこから考えるとコミュニティー分断というのは何も悪いことだけではない。だがコミュニティー分断を繰り返した先に待つのは孤立であり、そこまでいかなくても親友と二人きりになってしまう可能性は高い。その場合の親友はかなり自分に近い価値観を持った人間であるはずなのだが、それでも何かのはずみでどうしても許せない価値観の不一致に気づいてしまう可能性も存在する。その親友と価値観が完璧に一致しているとしても、もしその親友と死別したり、どうしても距離を置かなければならなくなってしまえば結局は孤立してしまう。
女性にとって孤立とは承認が得られなくなるということであり、すべてのコミュニティーから孤立してしまえばだれからの承認も得られないことを意味する。それはまさに地獄絵図であろう。ゆえに女性は孤立を恐れる。そしてコミュニティー分断も長短はあるにせよ、孤立に近づいてしまうかもしれない事も意味しているわけで、孤立ほどではないにしろ、コミュニティー分断もまた女性が恐れる対象であろう。
ちなみにコミュニティー分断の危機というのは何も特殊なことではない。たとえばとある女性コミュニティーの人間が特定の作品について高評価を示した場合、そのコミュニティー内部のその作品をつまらないとしか思えなかった者は自分が否定されたと感じることになる。これは低評価をだされた作品をおもしろく感じた場合も同様である。理屈を伴わない感情で評価を下すわけだから、相手と本質的な不一致があれば、そこに共感も納得も発生しづらい。共感が自己承認を生み出すもとである以上、女性は自分の共感を守るために自分と正反対の意見に反撃したくなる。ただ実際に反撃まで行く人は多くはないだろう。女性性の本質は温和な受容性なのだから。
ともあれ女性が他者を攻撃するときはあくまでも自分、あるいは自分が参加するコミュニティーを守るためであって、男性のように他人を押しのけ高い序列を手に入れようとするがゆえの攻撃を行う場合はそれほど多くはないだろう。
間接的心理攻撃
的な精神攻撃を主に用いる場合が多いのである。たとえば相手の悪いうわさを流して評判を落とすなどのような人間の心理を利用する形での攻撃をする場合が多いのである。これは女性が人間の心理のメカニズムを男性よりも深く理解していることを意味している。心の理論の理解度が低い人には、このような攻撃方法は取れないからである。基本的には女性の心の理論に対する理解度の高さは他者を受容するためのものなのだが、それを攻撃に用いる場合、相手が一番傷つくポイントを的確に突き刺すことも可能なのである。
なお、女性が流す悪いうわさというのは、出処不明なものとして作り出されたり、実在のうわさを思い込みによってオーバーなものに差し替えたりする場合が多い。もちろん実在のうわさがそのまま使える場合はそのまま使う。ともあれ、出処不明の悪いうわさをコミュニティー内部に流したとして、それは発言者の責任にはならない。あくまでも最初にうわさを流したものの責任であり、出処不明ということにしてしまえば創作が発覚しない限りは責任は生じない。かくして自分は悪者にならずに敵にだけダメージを与えることになるのである。このように女性はコミュニティー内部での評判を落とすことを恐れ、それゆえに相手に対する攻撃は自分の評判を落とさないようにしつつ、相手の評判を落とすことを意味する場合が多い。先に示したように女性はコミュニティーからの孤立を恐れるからだ。女性同士では相手に約束を破らないようにさせるための脅し文句として「約束を破ったら絶交」という言葉が用いられやすい。なおこれは男性同士ではめったに使われない言葉であり、男女における孤立の恐怖心の差を表していると考えられる。
あと、相手の至らぬ点を他人の目の前でアドバイスとして指摘することで、優しい人という演出をし自分の評価を上げつつ、相手の評価をさげるという攻撃方法が使われることもあるという。
補足
感情と理屈を分けて考える能力についてもう少し別の角度からも考えてみたい。
女性にとって共感が重要というのはいうなれば相手の感情をそれだけ大事にするとうことを意味する。そして相手の感情に自分の感情を重ねられるかどうかも大事なことであり、トータルで考えれば女性にとって感情こそが一番大切なものだということだろう。
つまり女性は何をするにも他人や自分の感情を重視するということであり、それは逆に言えば感情と理屈を切り離して考えることもそれだけ苦手だということを意味する。男性にとって感情は自分から切り離しても構わないものであり、それゆえに感情と理屈を切り離して考えることが容易である。おそらく女性が男性のように感情と理屈を切り離して考えられるようになるためにはかなりの訓練を要すると考えられる。逆に男性が女性のように他人の感情を読み取れるようになるかというと、これは絶望的である。思考にまつわることは訓練で高めることもできるが、感覚にまつわることは本人の資質に大きく左右されるわけで訓練で伸ばせる可能性はきわめて低い。女性は訓練で男性性をある程度は身につけることもできると思われるが、男性は訓練では女性性をほとんど身につけられないのである。
なおコーエンは、自閉症の人にはニューロンの過剰結合が多く見られ、この局所ネットワークの過剰結合があることによって特定分野の大量の細かい情報を処理できるのだとみなしている。その反面、脳内の長距離結合が欠けているか未発達なために、脳の機能の一部が極端に活性化したり、別の機能がパワー不足に陥ったりするのだというのだる。そしてスーザン・ピンカーはこれを受けて、さらなる仮説をうちだしている。それは男性は局所的な結合が相対的に多いために平均的に言って細部をシステム化することに集中できるが、その反面他者の感情の処理に使われる神経ネットワークは相対的に少ない。そして女性は逆に長距離結合が多いために感情を素早く知覚でき、それを脳の他の領域と結びつけることができるのではないかというものである。たしかに左右の脳をつなぐ脳梁などは女性の方が太く、女性の脳は感情や言語の処理が男性のように片方だけに偏っていないのである。
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男女の性差について1.性差の実例
男女の性差について2.共感とシステム化、その本質について
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
男女の性差について5.オタク論その他
4.コミュニティーと承認についての仮説
本章では男性コミュニティーと女性コミュニティーがそれぞれの性においてどのような役割や意味をもっているか。そして男性と女性の自己承認の差異についての仮説を立てていく。もちろん仮説なので証明された事実というわけではない。
前提仮説:感情と議論
本筋に入る前に重要な仮説を打ち立てておきたい。男性が女性よりも感情を切り離した議論が得意な理由についてである。コーエンがいうには自閉症児は自分の心の状態を所有していても内省ができないらしい。自分の心の内省ができないということは自分の心のあり方について考えることができていないということである。そこから考えるに、人間は他人の心との比較なしに自身のを理解することはできないという推論が成り立ち、そしてそれは自閉症児にとっては自分の心ですらよくわからないものでしかないということも意味する。そしてそれは自閉症児にとっての自分の心の重要性は通常の男児よりも低いものになるという意味と同義である。曖昧な感情というのは刹那のものであって持続するわけではない。持続しない刹那的な感情は明確な意識よりも重要度が低くて当然なのである。
そして先に示したように超男性型脳が自閉症患者のものを意味するというなら、自閉症に近づくほど男性性が強くなるということであり、それは男性性が強くなるほど、少しずつではあるが自分自身にとっての、その心の重要性が失われていくという事を意味する。それは男性性の本質は人間嫌いであるという仮説と一致する。いきすぎた人間嫌いは自分すら嫌うものだからである。そしてその考え方は純粋なオタクは内気で自己嫌悪しがちだという肌感覚とも重なっている。
なお、男性性が高まるほど自分の感情の重要性が下がるということは、感情を切り離した議論が得意になっていくということにつながる。ようは自己嫌悪力の高い人間ほどドライで冷酷な考え方をし易いわけである。もちろんこの自分の感情を切り離しやすくなるという現象は男性性がかなり高めにならないと明確な形で表れてこない。いわゆるヤンキーと呼ばれる人たちは受容性もそれなりにあるが拒絶性はそれ以上に高いから他者への攻撃性を発揮すると考えられる。そこか考えれば男性性がヤンキーレベルの段階こそ、男女含めて一番自分の感情を切り離すことが苦手な状態だと言えるだろう。そもそも女性性が高くなるほど自我は薄まっていくので、逆に女性性がかなり高めになっても自分の感情を切り離すことがやりやすくなる。ただその段階での女性は他人の感情の重要性が高くなるので、自分の感情は切り捨てれても他人の感情は切り捨てられない。つまり他人の感情に惑わされた議論しかできなくなりがちになるのである。
女性の自我が男性よりも弱いものになりがちなのは、女性が自身の成功の原因を外在化し、失敗の原因を内在化しやすいことからも導き出せる。女性は成功をたまたま偶然が重なっただけのマグレと考えがちであるし、失敗の原因は常に自分にあると思い込みがちである。なお女性が失敗の原因を内在化しすぎることをインポスター症候群と呼ぶ。そもそも失敗の内在化はさらなる努力を生み出す元になることも多く、必ずしも悪いこととは言い切れない。だがそれも行きすぎれば人生にとって障害となりえてしまうのである。ちなみに男性の場合は一般的に成功を内在化、失敗を外在化しやすく、一般的女性とは正反対になる。
なお、女性が感情を切り離した議論を苦手とする場合が多いことはもう1つ別方向からも説明できるが、これについては後述する。
コミュニティーにおける序列
子どもというのはかなり幼い段階から男の子は同じ男の子、女の子は同じ女の子と遊びたがるという。つまりは人間はもともと同性同士でコミュニティーを形成したがり、異性側のコミュニティーに関わりたがる人間は少ない事を意味している。
一般的に女性よりも攻撃的である男性はコミュニティー内での序列に拘る。これは社会秩序をシステムとしてとらえ、それを掌握しようとする行為であるとも言える。そして序列にこだわるがゆえに弱みを他者に見られるのを避け、自分をより大きく見せようとしたがる。男性コミュニティーにとって自分の優位性を示そうとすることは当たり前のことであり、コミュニティー内での攻撃合戦もある程度は許容される。なお、たまに自虐的に弱さをアピールする男性もいるが、彼らの多くは他人から「思ったほど弱くはない」と評価されるのを期待しているのであって、弱さを非難されるのを期待しているわけではない。
そんな男性にとっても、自身の期待ほど序列が高くないという場合は多々存在する…というかむしろそちらの場合の方が多いであろう。その場合男性が取る行動の方針はいくつかに限られている。
①まず序列を上げるために努力する
②次に今のコミュニティーを離れ、別のコミュニティーでの序列に期待する。
③次にまったく別の評価軸に拘るようになる
この場合②と③は両立することが多い。コミュニティーを移しても以前のものと同じ評価軸をもっていたら、また評価されない可能性があるからである。
なお、いわゆるオタク趣味をもつ人間の中にはコミュニティー内で認められないからオタク趣味に逃げ込んできたタイプも存在する。そしていわゆる「萌え」というのは純粋オタクの教養主義的評価軸が受け入れられない者達が打ち出した新しい評価軸である。
ついでに言うとヤンキーというのは優等生が認められる評価軸が受け入れられない人間がなるものであり、マイルドヤンキーは優等生の評価軸もヤンキーの価値観も受け入れられない人間がなるものである。
ここから考えると男性はコミュニティーに認められない場合、認められようと努力するか、あるいは自分個人がコミュニティーを離れようとする事が多いだろう。なお純粋オタクの場合、他者に対しての関心が薄いため、必ずしもコミュニティーに参加しようとするとは限らない。
対して女性同士のコミュニティーでは平等性が何よりも重視される。たとえ女性であっても男性ホルモンがまったく分泌されないわけではない。コミュニティー内で他者に対して攻撃をする女性が出てくることもある。そして自身に対する攻撃を受け入れられるほど受容性が高い女性はそれほど多くはないであろう。自身への攻撃が受け入れられないのなら反撃し、攻撃者をコミュニティーから追い出すか、あるいは自分がコミュニティーを離脱するしか無い。結果としてコミュニティー内部で攻撃性を示す女性の存在はその安定性を脅かすことになる。そして男性のようにコミュニティーで序列を決めることは、ある意味序列が高いものから低いものへの攻撃であり、女性にとって序列付は天敵とも言えるのである。もともと女性性というのは温和さでもあり序列を付けたがる女性もそれほど多くはないのであるが。
ともあれ女性コミュニティーにとって序列付けがよくないものである以上、そこでは平等性が何よりも重視される。そこでは自分一人だけ成功者になることは許されにくい。男性向け漫画では成功体験が最大のテーマなのに女性向けではそれが軽視されがちなのは、女性にとってコミュニティーを脅かすタブーだからである。
極端な女性型脳である聖女であれば、正反対の意見も同時に受け入れられるはずであるが、一般的な女性は自分と相容れない意見は受け入れられない。では女性が自分と真逆の価値観と接した時どういう行動を取るのだろうか。
それについて説明する前にまず男性の場合について考えてみよう。一般的な男性が真逆の価値観と接した時、それはいずれ自分が屈服させたい敵対価値観として認識することになる。極端な男性型やそれに近い場合はともかく、多くの男性にとっては男性性の高さは攻撃性の高さを意味する場合が多いのである。そしてもちろんこの場合において相手を屈服させる事ができる保証はなく、あくまでも希望でしかない。だが自分と異なる価値観すべてを憎み続けることはできない。ゆえに男性は自身の敵対価値観についてその重要さをランキングし、重要度の低い敵対価値観については忘れ去ることになる。
そして男性が敵対価値観と正面から衝突することになった場合、重要度の高いものとの衝突は男性にとっていずれ訪れることでしかなく、その覚悟はできていることになる。逆に重要度の低い価値観とぶつかった時は覚悟こそでできていないものの精神的なダメージも低い場合が多い。もちろん重要度を低く見積もっていたものとの衝突が予想外の正論を含んでいたために意外な大ダメージを負ってしまうこともあるが、それはあくまでも見積もりの失敗によるものである。ちなみに純粋オタクの場合は、他者に対する関心が薄いがゆえに重要度の高い敵対価値観をほとんど作らず、結果重要度が低い認定ばかりにしてしまう存在だとみなせるだろう。
ともあれ価値観のぶつかり合いで相手を屈服させられれば、男性にとっては新たな成功体験であり、自分自身や他人からの評価を高めてくれる要素になる。そして自己評価を高めることは言うなれば自己承認を行うのと同義であり、他人から評価されるということは他者からの承認を得るということでもある。
逆に相手に屈服させられた場合、男性が取る行動は二通り考えられるだろう。それは相手を自分よりもある意味格上の存在とし尊敬するか、あるいは相手との接点をすべて切り離し今後の接触を無くすかのどちらかである。おそらくその両方も封じられると人間は混乱し自分を見失うと予測される。よく見かける自分が負けたことを絶対に認めない人間は、そうならないために防衛策をとっているとも考えられるだろう。
そして自分と相手がほぼ互角であることを認めざるを得なくなった場合、男性は相手をライバルと認め、関係性が複雑化し、安易に敵とみなせなくなる。少年漫画などでは、敵だった相手が決着がつかないうちから仲間っぽくなってしまう展開は王道だが、これに一致するケースだと言えるだろう。そして決着がついた場合でも安易に絶対的な負けを認めようとしない場合はもまたこれに類似するケースだと見なすことができるかもしれない。
女性コミュニティーと対立価値観
さて男性が真逆の価値観を屈服させたいと思うのなら、女性はどうなのか。男性との対称性を考えれば女性は真逆の価値観を受け入れようとしてもおかしくはなさそうなのだが、実際にはそうはいかない。自分のアイデンティティーを脅かすことになるからである。
では女性は真逆の価値観に対してどう接するのか。その答えは無視である。真逆の価値観にたいし論理立てて自分の正当性を示そうとする行為は相手を屈服させ序列を明確にしようとする男性的行為であり、平等を重んじる女性コミュニティー内でそんなことを起こせば、下手をすると自分がコミュニティーから除外されかねない。もちろんコミュニティー内からコミュニティー外に対して行う分には自身のコミュニティーを脅かすことはないからこの限りではないのであるが。おそらく女性コミュニティーが外部のコミュニティーへの攻撃を許容するとしたらコミュニティー内部の人間の多くが攻撃を望んでいる時だけだろう。ちなみにこの状態は男性対女性という対立軸の場合に発生しやすくなる。
ともあれそこまで切迫した状態にならない限り女性は対立価値観の存在に対し無視で対応することが多い。なお女性が無視した真逆の価値観というものは女性にとってこの世に存在しないも同義であり、その無視した価値観の分、女性の視野というのは虫食い状態になる。
その結果女性の視野のトータルとしての面積は一般的男性よりも小さいものになりがちになる。男性社会の中での女性はその分いろいろな男性要素と接しなければならず、見かけ上の視野は男性よりも広いのが普通なのであるが、自分と異なる意見を無視によって発生する虫食い部分が多いため、男性よりも総合的な視野は狭くなりがちなのである。もちろん男性も敵対性の低い価値観は無視するから虫食いは発生していわけではあるが、自分と真逆な価値観ほど敵として覚えておく事になるので、たとえ無視する量が多かったとしてもあまり視野は狭くならない。なお当然ながらここで言うところの視野は視覚範囲のことではなく自分と異なる価値観の存在認識についてを意味する。実際の視覚範囲については女性の方が男性よりも広範囲である場合が多いらしい。
では女性が無視していたはずの自分と真逆な価値観とぶつからざるを得なくなった場合どうなるのか。まず自分にとってどうでもいい価値観とぶつかったとしてもたいしてダメージにはならない。これは男女とも同じである。だが女性は受容性が高めであるがゆえに男性と違って自分にとってどうでもいい価値観でも受け入れられる。ゆえに男性に比べてどうでもいい価値観と衝突する可能性はその分低くなるはずである。
基本的に自分と真逆な価値観とぶつかった時、女性はコミュニティー内部に慰めを求める事が多い。この慰めという行為は女性コミュニティーにとって最も重要な要素である。相手を屈服させることを是とせず、相手を受容することが女性性の本質なのだから、当然苦しんだり悩んだりしている相手も受容するのが基本である。そしてその苦しんだり悩んだりいている人間にとって一番の処方箋は他者から共感されることなのである。この慰めという行為も一種の承認であり、女性コミュニティーは慰めを含めた共感による相互承認のために存在していると言っていいだろう。
なお男性の場合、同じ男性で構成されたコミュニティーに対して慰めを求めることは少ない。それは慰めを求めることが弱みを見せることと同義であり、自分の序列を下げる行為だからである。実際に男性が他の男に慰めを求めるケースは相手の男の方が自分よりも格上であることが明確な場合がほとんどであろう。なお恋人や妻に対して慰めを求める男も実在するが、その場合は相手の女性に母親役を演じてほしがっているということを意味している。ちなみに他者に慰めを求めない男は逃げ場がない分、女性よりストレスが蓄積しやすく、それゆえ最終的に自殺という方向に進むケースが女性よりも多くなる。
話を女性についてに戻そう。同一の相手から女性コミュニティー内の人間が多数傷つけられた場合、そのコミュニティーはその相手を敵と見なすことになる。これは男性でも同じであるが、男性の場合は傷つけられた者の序列が高ければ、傷つけた相手を敵と見なすことになる。そして傷つけられた者の序列が低い場合はコミュニティーを維持するためのメンツのコストなどを算出し、敵対行動を取るかどうかを決定することになる。話を女性に戻すと、女性の場合は傷つけられた者が少数なら絶対に反撃しないかというとそうとは限らない。傷つけられた者に深く共感する者が多ければ、それは多数の人間が傷つけられたとほぼ同義であり、反撃に及ぶに値する理由になるだろう。
一般的な女性は相手を言い負かし屈服させることを是としていない。そして感情こそが重要であり理屈は二の次である。ゆえにたいていの女性にとって議論は大の苦手項目である。結果として、女性コミュニティーが対立価値観に反撃するときは多くの場合ひたすら自分の感情をむき出しにし続けることになる。そして論争の終わりは単に対立価値観との衝突による疲弊が限界を超えた状態にたどり着いたというだけであり、本質的な解決に至ることは少ない。
とある研究では女性は悩んだり苦しんだりする頻度が男性より三割高いというデータが出ている。それだけ女性という生き物は傷つきやすいのである。そして基本的に女性同士の価値観の衝突というものは両者ともに傷ついて疲弊するだけであり、何も生み出さない場合が多い。ゆえに女性同士が衝突して傷つけ合わないようにする価値観による住み分けが大切になるのである。女性は本質的に一対一の関係性を求めることが多く、親友だけに限定した少人数のコミュニティーを好む傾向があると言われている。これは自分の価値観と一致する部分がより多い相手とだけ関わろうとすることで価値観の衝突をさけようとしていると考えられる。インターネット上にて女性二次創作者の運営するホームページに作品傾向の注意書きが描かれることが男性二次創作者の場合よりも多いのは、それだけ衝突を避けることが重要だということの証拠であろう。
女性コミュニティー内部での対立と分断
さて女性が価値観の衝突をさけようと注意しているとして、不意に予想外の衝突は起こりうる。特に、無視したわけではない、自分にとって重要な部分で衝突が発生するとそのダメージは甚大なものになる。たとえば特定作品のファンがその登場人物同士を恋愛関係に恋愛関係にした二次創作をする場合を仮定する。どちらのキャラが恋愛に積極的かという解釈に絶対の自信を持っている場合、真逆の解釈は受け入れられないものになることもありうる。
つまり、本来はその特定作品のファンは本来自分と共感可能な存在のはずなのに、自分とは共感不可能だと言われてしまうことに同義なるわけである。これは言ってみればコミュニティー分断の危機であり、ひょっとすると自分が孤立してしまうかもしれない可能性も示唆している。
なお女性による二次創作におけるカップリング論争は、カップリングが違えば別ジャンルという認識の普及と衝突回避のための相互努力の結果により、現在では昔に比べそれが発生する機会は大幅に少なくなっている。ようするに「身内」ではなく「無視すべき外様」という認識に変わっていったのである。
何度も言うが一般的に女性は理屈を考えることが苦手である。ゆえに今の自分に問題がないかどうかを考えることもまた苦手である。それゆえに女性は他者から今のままで問題がないことを示してほしいと願っている。つまりは女性は基本的に他者からの承認がないと安心して生きていけないのである。なお、男性においてもヤンキーやマイルドヤンキーは他者からの承認を重要なものと見なしているのだが、女性と比べるとその重要度は明らかに落ちるだろう。そして共感とは言ってみれば理屈を伴わない承認である。女性同士の共感は互いを承認し合う効果を持っているのである。
なお既婚女性や恋人のいる場合はパートナーから承認してもらうこともできるのであるが、独り身の場合はそうはいかない。家族や友人から承認をもらうしかない。そして家族や友人関係もまた、ある種のコミュニティーである。なお、この家族というコミュニティーの場合は分断が発生しづらいという特性があるため、かなり特殊であり、それゆえ他のコミュニティーと同列には扱えない。とりあえず本稿では原則的に除外して考えることにする。
女性コミュニティーにおいて分断が発生すると、参加していた女性にとって人数の減少分だけ手に入る承認も少なくなる。さらにいえばコミュニティー分断によって傷つく人がたくさん出てきて他者に共感を向けている余裕がなくなる人もたくさん出てくるだろう。コミュニティーの分断はそれ自身がもつ承認メカニズムを狂わせたり弱めたりすることになるのである。ただコミュニティーが分断されることによってその細分化が自分にとってより最適な状態を生み出すことになるかもしれない。つまりより自分に近い価値観の人間だけになることによって、より深い共感、すなわちより強い承認が手に入る状態である。そこから考えるとコミュニティー分断というのは何も悪いことだけではない。だがコミュニティー分断を繰り返した先に待つのは孤立であり、そこまでいかなくても親友と二人きりになってしまう可能性は高い。その場合の親友はかなり自分に近い価値観を持った人間であるはずなのだが、それでも何かのはずみでどうしても許せない価値観の不一致に気づいてしまう可能性も存在する。その親友と価値観が完璧に一致しているとしても、もしその親友と死別したり、どうしても距離を置かなければならなくなってしまえば結局は孤立してしまう。
女性にとって孤立とは承認が得られなくなるということであり、すべてのコミュニティーから孤立してしまえばだれからの承認も得られないことを意味する。それはまさに地獄絵図であろう。ゆえに女性は孤立を恐れる。そしてコミュニティー分断も長短はあるにせよ、孤立に近づいてしまうかもしれない事も意味しているわけで、孤立ほどではないにしろ、コミュニティー分断もまた女性が恐れる対象であろう。
ちなみにコミュニティー分断の危機というのは何も特殊なことではない。たとえばとある女性コミュニティーの人間が特定の作品について高評価を示した場合、そのコミュニティー内部のその作品をつまらないとしか思えなかった者は自分が否定されたと感じることになる。これは低評価をだされた作品をおもしろく感じた場合も同様である。理屈を伴わない感情で評価を下すわけだから、相手と本質的な不一致があれば、そこに共感も納得も発生しづらい。共感が自己承認を生み出すもとである以上、女性は自分の共感を守るために自分と正反対の意見に反撃したくなる。ただ実際に反撃まで行く人は多くはないだろう。女性性の本質は温和な受容性なのだから。
ともあれ女性が他者を攻撃するときはあくまでも自分、あるいは自分が参加するコミュニティーを守るためであって、男性のように他人を押しのけ高い序列を手に入れようとするがゆえの攻撃を行う場合はそれほど多くはないだろう。
間接的心理攻撃
的な精神攻撃を主に用いる場合が多いのである。たとえば相手の悪いうわさを流して評判を落とすなどのような人間の心理を利用する形での攻撃をする場合が多いのである。これは女性が人間の心理のメカニズムを男性よりも深く理解していることを意味している。心の理論の理解度が低い人には、このような攻撃方法は取れないからである。基本的には女性の心の理論に対する理解度の高さは他者を受容するためのものなのだが、それを攻撃に用いる場合、相手が一番傷つくポイントを的確に突き刺すことも可能なのである。
なお、女性が流す悪いうわさというのは、出処不明なものとして作り出されたり、実在のうわさを思い込みによってオーバーなものに差し替えたりする場合が多い。もちろん実在のうわさがそのまま使える場合はそのまま使う。ともあれ、出処不明の悪いうわさをコミュニティー内部に流したとして、それは発言者の責任にはならない。あくまでも最初にうわさを流したものの責任であり、出処不明ということにしてしまえば創作が発覚しない限りは責任は生じない。かくして自分は悪者にならずに敵にだけダメージを与えることになるのである。このように女性はコミュニティー内部での評判を落とすことを恐れ、それゆえに相手に対する攻撃は自分の評判を落とさないようにしつつ、相手の評判を落とすことを意味する場合が多い。先に示したように女性はコミュニティーからの孤立を恐れるからだ。女性同士では相手に約束を破らないようにさせるための脅し文句として「約束を破ったら絶交」という言葉が用いられやすい。なおこれは男性同士ではめったに使われない言葉であり、男女における孤立の恐怖心の差を表していると考えられる。
あと、相手の至らぬ点を他人の目の前でアドバイスとして指摘することで、優しい人という演出をし自分の評価を上げつつ、相手の評価をさげるという攻撃方法が使われることもあるという。
補足
感情と理屈を分けて考える能力についてもう少し別の角度からも考えてみたい。
女性にとって共感が重要というのはいうなれば相手の感情をそれだけ大事にするとうことを意味する。そして相手の感情に自分の感情を重ねられるかどうかも大事なことであり、トータルで考えれば女性にとって感情こそが一番大切なものだということだろう。
つまり女性は何をするにも他人や自分の感情を重視するということであり、それは逆に言えば感情と理屈を切り離して考えることもそれだけ苦手だということを意味する。男性にとって感情は自分から切り離しても構わないものであり、それゆえに感情と理屈を切り離して考えることが容易である。おそらく女性が男性のように感情と理屈を切り離して考えられるようになるためにはかなりの訓練を要すると考えられる。逆に男性が女性のように他人の感情を読み取れるようになるかというと、これは絶望的である。思考にまつわることは訓練で高めることもできるが、感覚にまつわることは本人の資質に大きく左右されるわけで訓練で伸ばせる可能性はきわめて低い。女性は訓練で男性性をある程度は身につけることもできると思われるが、男性は訓練では女性性をほとんど身につけられないのである。
なおコーエンは、自閉症の人にはニューロンの過剰結合が多く見られ、この局所ネットワークの過剰結合があることによって特定分野の大量の細かい情報を処理できるのだとみなしている。その反面、脳内の長距離結合が欠けているか未発達なために、脳の機能の一部が極端に活性化したり、別の機能がパワー不足に陥ったりするのだというのだる。そしてスーザン・ピンカーはこれを受けて、さらなる仮説をうちだしている。それは男性は局所的な結合が相対的に多いために平均的に言って細部をシステム化することに集中できるが、その反面他者の感情の処理に使われる神経ネットワークは相対的に少ない。そして女性は逆に長距離結合が多いために感情を素早く知覚でき、それを脳の他の領域と結びつけることができるのではないかというものである。たしかに左右の脳をつなぐ脳梁などは女性の方が太く、女性の脳は感情や言語の処理が男性のように片方だけに偏っていないのである。
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テーマ : ジェンダー・セクシュアリティ - ジャンル : 心と身体
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
(注意)当記事は一連の記事の一部となっております。順番に辿っていってください。
男女の性差について1.性差の実例
男女の性差について2.共感とシステム化、その本質について
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
男女の性差について5.オタク論その他
3.ホルモンと脳についての実例(本章も本題とは直接関係ないので読み飛ばしても構わないです)
ここではホルモン分泌量と脳の構造から見た男女差の実例について挙げていく。なおここでの調査もアメリカ合衆国でのものと思われる。
【テストステロン】
48人の妊婦の胎内テストステロン値を測定し、その後生まれた子どもの発達を追跡して、テストステロンと言語発達、アイコンタクト、対人スキルとの関連を調べる調査をすると、その結果、言語スキルには性差がなかったが、子どもの性別と胎内テストステロン、社会性の発達には関連性があった。妊娠中期三か月目の羊水のテストステロン値が高いほど、健康な子どもが親と視線を合わせる頻度が少なかったのという。また胎内テストステロン値が高かった子どもは四歳の時点で社会的スキルが劣り、関心の範囲が狭かった。社会性については女児の優位を示す性差があり、当然ながら女児は胎内テストステロン値は低かったという。
男性の発達過程ではテストステロンの分泌量が特に高まる時期が3回あるという。最初は妊娠八週目から二十四週目の胎児期、次に生後五か月頃、そして最後が思春期である。この時期には脳がホルモン量の変化に非常に敏感になるために活性期と呼ばれている。そして性ホルモンは特に胎児期の脳に重大な影響を及ぼすと言われている。
妊娠したアカゲザルにテストステロンを注射すると生まれた子が遺伝的にメスの場合でも生殖器の形状はオスと同じになる。そしてオスと同じようにけんか遊びをするようになることが多いという。
かつては流産を繰り返すヒトの女性妊婦に流産防止目的で化学合成された女性ホモルンが処方されていた。このような母親から生まれた男の子は女性的と呼ばれる行動を取ることが多く、幼児期には人形をかわいがるなど他人との交流を演じる遊びをする傾向が見られる。
胎児期のテストステロン値が高いと子どもは心的回転テストの成績が良いという傾向がある。(高すぎる場合は逆に値が低い子よりも悪くなる)
ホルモン値が異常な状態で生まれてきた子どもはそのホルモン値に影響され、通常の性差とはズレた傾向を見せることもわかっている。そして胎児期ほど極端ではないが、出生後のホルモン注射でも哺乳類の性差傾向に影響をおよぼすこともわかっている。
IHH(突発性低ゴナドトロピン性性腺機能低下症)の状態で生まれた男の子は睾丸が非常に小さい。IHHは性ホルモンの産出と放出を調整する機能がうまく働かないことによっておこる。IHHの男性は空間把握能力が普通の男性より劣っているという。
女の子がCAH(先天性副腎過形成)を伴って生まれてくと、男性ホルモンの一種であるアンドロゲン値が高いために生殖器や性腺が男性化してしまう。この場合、普通の女の子より空間把握能力が高くなり、男の子用のおもちゃを好んだり、競争や体を使った遊びに参加することが多くなる。
オスのネズミは一般にメスより早く迷路を抜ける道を見つけ、過ちを行う回数も少ない。メスや去勢されたオスは迷路の中にある目印に頼ろうとする傾向が見られる。メスのネズミが出生時にテストステロンを注入されると通常のオスと同レベルの迷路脱出能力を見せ、目印に頼らなくなるという。
子どもを生んだことのないメスの哺乳類に雌性ホルモンのエストロゲンやプロゲステロンを注射する実験では赤ん坊に示す興味がより強くなったという。
テストステロンが低下した高齢男性に治療目的でテストステロンを投与すると、偽薬を与えた場合よりも積み木検査(積み木が回転した時にどうみえるかを予想)の成績が良い傾向が見られる。
異なる職種の男女8000人のテストステロン値を調べると、一番高いのは、俳優、フットボール選手、建設作業員、街をブラブラしている失業者だった。そしてブルーカラーの労働者はホワイトカラーよりもテストステロン値が高く、管理職はプログラマーより46%、営業職は教師より24%、建設作業員は弁護士より24%高かったという。そしてテストステロン値が最も低かったのは聖職者や農業従事者、学者だった。ちなみに女性弁護士全員のテストステロン値は女性アスリートや看護師、教師よりも高い結果が出た。
さまざまな年齢の女性から血液サンプルを採取し、ホルモンと職業との関係性を調べる調査では、大学生や専門職、技術職など、旺盛な意欲を持ち高い社会低地位についている女性においてテストステロンとその前駆体アンドロステンジオンの血中濃度が高いという結果が出た。これに対して主婦や事務職など、そして結婚や出産前に高度な専門職訓練を受けいていない女性の方が血中の男性ホルモン濃度が低かったという。
若い成人女性の体内での三種のホルモン量(テストステロン、アンドロステンジオン、エストロゲン(女性ホルモンの一種)の中で最も生理活性の強いエストラジール)を計測し、女性たちに自分と仲間の社会的ポジションをランク付けさせる調査では、これらの値の高い女性は自分に強い自信をもっていることがわかった。また男性ホルモン値の高い女性は自分が他の女性に人気があると考えていたが、仲間の女性たちはそう考えていなかった。(自己主張の強い女性は同性から嫌われやすい)
テストステロンは頑強さや支配、自己主張、耐久力、勝負に勝つことに関わるが、同時に攻撃的で半社会的な行動も引き起こしうると言われている。そして若い男性のテストステロン値は成長とともに着実に増加し、十代の終わりには女性の二十倍に達する。なお、テストステロンが大量に分泌されると筋力、持久力、空間認識能力が高まるが、その一方で免疫反応も低下させてしまう。
人間の男性におけるテストステロンと攻撃性の関係性を示す事例としては、ベトナム戦争から20年後に帰還兵を対象にして調査すると、テストステロン値が高い人ほど戦闘経験が多かったという件。さらに刑務所の規則にしたがう囚人より、暴力的で荒々しい囚人の方がテストステロン値が高く、短期で攻撃的、危険をものともしないタイプの囚人のテストステロン値が最も高かったという件が挙げられるだろう。
多くの動物研究ではテストステロンの投与でオスもメスもより攻撃的行動を取ることが示されており、テストステロンと攻撃性には何らかの関係があることがはっきりしている。テストステロンを注射したメスは群れの中での序列が上がり、メスのアカゲザルは攻撃性と序列があがる反面、育児行動は減少するという。
【左脳と右脳】
テストステロン濃度の高さは右脳や右半身の発達成を促す。そして女の子は男の子よりも早い段階で、言葉を聞くときに右脳よりも左脳の方が活発な活動を見せ、言語認知における左脳優位性を示すことがわかっている。ちなみに空間把握能力に関わってくるのは脳の右側である。
男性は右足の方が左足の方が大きく、右の睾丸より左側が大きい事が多いとする研究がいくつもある。女性では左足の方が右足より大きく、卵巣も右側より左側が大きく、乳房も左の方が平均的に大きいという。
被験者を男女関係なく左右のどちらが大きいかでグループ化すると、左側が大きいグループの方が言語テストの成績が良い。
指紋の隆線数ではほとんどの人が右手の方が多いが、左手の方が多い少数派は女性である確率が高い。
女性は左だけでなく右脳でも言語処理を行っている。ゆえに片側の脳を損傷しても言語障害を起こしにくい。男性の右脳の言語領域は女性ほど広くなく、左脳を損傷すると失語症になりやすいという。
被験者に一対の意味のない単語を読ませ、韻を踏んでいるかどうかを答えさせる、このとき女性の50%には左右の前頭葉のブローカ野(言語処理に関わる脳部位の1つ)の活性化が見られる。だが男性は左半球にしか活性化が見られない。
男性は左耳で聞いた単語よりも右耳で聞いた単語の方が正確に聞き取れる場合が女性より多い。(耳は反対側の脳により強い信号を送る)
手探りゲームでは男の子は左手で触った方が物の形を言い当てる確率が高い。女の子はどちらの手を使ってもよく答えられる。(左手は右脳に、右手は左脳に制御されている)
人間の場合、他人の表情を見ているときにスキャナーで見ると扁桃体が活発に働いていることがわかる。人間も動物もこの部分を失うと共感スキルを失う。出生後の雌のネズミの扁桃体(テストステロン受容体が多い)にテストステロンを注射するとオスのような行動を取る。
オスのネズミの扁桃体にはメスより大きい部分が存在するが去勢すると良四週間後にはメスと同程度の大きさにまで萎縮する。逆にメスにテストステロンを投与すると正常なオスと同程度まで膨らむ。
さらに脳の深い領域まで検証した事例を挙げていくと、PETスキャン(血液に放射性同位元素を注入し、その流れを機械に読み取らせる)にて、人の表情の写真をみせると、女性は左右両側の脳が活性化され、扁桃体の活動が盛んになるという。男性の場合では感情の知覚はたいてい左右どちらかの脳に局所化され、特に人の声を写真に対応させる必要があるなど作業が複雑になると、右前頭葉皮質に活動が表れる。
fMRI(機能的磁器共鳴画像装置)を使えば脳の構造だけでなく思考や認知、運動インパルスの影響が脳の領域を行き来する様子を可視化して見られる。そのfMRIで24人の脳をスキャンしたと実験では情緒に訴えかける画像を処理するときに経由するネットワークが男女で異なっていた。女性は非常に情緒的なイメージをはじめて見た時に左脳の広範なネットワークが活性化し、三週間たってもそのイメージをよく覚えていた。そして女性は情緒的な経験を男性より強力に受け止め、左脳特に扁桃体を使ってこれを処理していた。なお男性はこれとはまったく反対に強い情緒刺激を右扁桃体が関わるネットワークで処理していたという。ちなみに女性は経験した感情を何らかの内的言語で処理し評価しているのではと研究者は推察しているという。対して男性では、感情のエンコードは右扁桃体で最も自動的に行われると考えられている。
fMRIを使った実験で被験者に女優の顔写真を見せ感情を判定させると、嬉しそうな表情は男性も女性もおなじように区別できた、だが悲しそうな顔の写真になると男性は70%の頻度でしか正しく識別できなかった。そして女性は90%正しかった。なおその時に女性は大脳辺縁系のなかで比較的新しく進化した部分である帯状回(他者の苦痛に対する共感反応の個体差に関わると思われる部分)に活発な活動が見られた。一方男性は概して大脳辺縁系の中でも古い部分が多く活動していたという。
女性の脳では特に言語作用を司る後側頭皮質で受容体の密度が男性のそれより11%高い
【オキシトシン】
女性ホルモンの一種であるオキシトシンは女性の月経周期や対人関係の重要なタイミングで分泌され、他のストレス反応を抑制したり、出産後の母親をリラックスさせる効果がある。それは分娩時や授乳時、子どもの世話をするとき、オーガズム時にも分泌され、特有の親密感やリラックス感を引き起こす。オキシトシンはストレス時に分泌される内因性オピオイド(モルヒネに似た作用を持つ物質)と相まって鎮静・鎮痛効果をもたらし、何か問題が生じると本能的に他者との接触を求める女性を落ち着かせ、即時のごほうびを与えることによって母親としての活動を継続させる効果があるという。そして最近の研究では他者の表情から感情を読み取るのを助けたり、他者への信頼を高める効果もあるとされる。
被験者の男性の半数にオキシトシンを鼻から吸入させ、偽薬を吸入させたグループと比較すると、オキシトシン吸入のグループの方が共感性のある側面が高めることが示された。具体的には人の顔写真から読み取りにくい微妙な感情や意図を推測する力を増す作用があったのである。
被験者に投資ゲームを行わせると、オキシトシンを投与したグループの男性は他のチーム参加者を信頼する傾向が強く、偽薬グループの二倍に当たる金額を投資した。つまり相手を警戒する防衛反応を抑える作用を持つことが示されたということである。なお男性の場合、オキシトシンは対人関係における警戒心を弱める働きはあるが、一人でいるときにリラックスするような作用は見られなかった。周囲に他人がいるときに不安感を沈める社会的触媒としての働きが強いと推測されている。
自閉症の子どもは健常児より、出生前のオキシトシンとその前駆体の値が低いことがいくつかの研究でわかっている。
プロラクチンというホルモンは男性と女性の両方に生成されるが、女性の場合、母乳の分泌を促進し、授乳や養育、保護などの行動によって体内を循環するという。そしてオキシトシンもまた授乳時などに大量に分泌される。この「満ち足りた幸福感をもたらす秘薬」と呼ばれるそれは母乳そのものにも含まれていると考えられており、赤ん坊は母親から栄養を分けてもらうだけでなく、身体的な接触の楽しみと麻薬的な快楽を得ていることになる。なお授乳中は鎮痛作用と快楽誘発作用のあるオキシトシンが数時間おきに母親の脳を満たすが、仕事に戻るとその供給が途切れてしまう。そして子どもと離れていることが不安やパニックの原因になることさえある。こうした母親の反応をドラッグの禁断症状と似たものだという研究者もいる。
動物の事例では、フタオビチドリのメスは巣に近づいた天敵を引き離すため、重症を負ったかのような頼りない足取りでおとりになろうとする。そのひなを守ろうとすることで母鳥のプロラクチンレベルはさらに上昇するという。
哺乳類の場合、妊娠や授乳、赤ん坊の世話に伴うホルモンの大量分泌によってメスの脳内の神経回路が組み替えられ、学習能力や記憶力も向上されることがわかっている。端的に言えば、哺乳類は母親になることで賢くなるのである。世間では妊娠して母親になると頭がぼんやりすると言われる。(オキシトシンの鎮静作用)だが母親が分泌するホルモンには付随的なメリットもあり、たしかにある種の問題解決能力が向上するのである。(特に子どもが危険にさらされた時)
メスのネズミに迷路の中に隠した餌を探させると、母ネズミは子どもの居ないネズミよりもよい成績を出す、さらに妊娠したことがあるか、あるいは赤ん坊のネズミをあてがわれ若いメスネズミの方が、それ以外のメスネズミよりもうまく餌を見つけるれる。たとえ妊娠したことがなくてもそばに子どもがいるというだけでオキシトシンが分泌され、神経回路が組み替えられたことによって空間記憶が向上したのである。なおこうして身についた空間認識スキルはその後も衰えず、メスは以前よりうまく迷路内の餌を探せるようになる。
哺乳類と人間を対象にした研究によって、哺乳類の母親の脳に共通する神経回路存在が明らかになっている。脳の中央深くにある視床下部の一部、内側視索前野MPOA、そしてそれと帯状皮質との結合部は気分や感情の制御に関わっており、この経路全体はオキシトシンとプロラクチンの刺激にきわめて敏感である。さらにエストロゲンとプロラクチンにもこれらの領域のニューロンを拡張させ脳内の他の領域との結合を増やし、母親に問題解決能力を与えたり、報酬感をもたらす作用がある。母親になることで体力の消耗や動き回れる自由が成約されるという大きな代償をともなうが、神経科学物質によって養育行動にもたらせる報酬感は、そうした代償を埋め合わせるための進化なのかもしれないという考え方をする研究者もいる。
母ネズミにコカインか子ネズミかの選択肢を与えると、生まれたばかりの子ネズミを選ぶ。ちなみに母性行動を司る神経回路、特にMPOAをコカインが阻害することが突き止められている。この種のドラッグや外科手術によって母親のMPOAが損傷すると、母性行動がまったく消失してしまうのである。
母親に自分の子どもの写真や知り合いの子どもの写真をみせfMRIで反応を調査すると、自分の子どもの時と知り合いの子どものときでは反応の仕方に明らかな違いがあった。なお、母性的感情によって活性化する領域と恋愛感情によって活性化する領域はかなりの部分が重なっていたという。ただし母性愛に固有なルートもいくつかあり、それは脳水道周囲灰白質PAGと呼ばれる部分で母親が自分の子どもの写真をみているときにだけ活性化されたという。
男性においては言語活動を行うのはほぼ脳の左側だけであるが、女性は左右両方の脳をつかって言語を操る。これは一般的な女性が男性よりも脳梁や全交連が大きいことも影響している可能性がある。脳梁や全交連とは左右の脳をつなぐ部分であり、これが大きいほど左右の脳は連携が取りやすくなるのである。ちなみに男性同性愛者は一般的な男性よりも全交連が大きいことが多く、女性らしさに関わる何らかの部分に影響していると考えるしか無い。たとえば他者への共感をその相手に示すためにはそれなりの言語の能力が必要であり、それは言ってみれば共感のための言語活動である。それゆえ女性は感情と言葉を密接につないでおり、脳内の言語活動に使う部分が男性のそれよりも多くなるのではと考えられるのである。そしてそれは逆に言えば女性は感情と言語を切り離すのがそれだけ苦手である可能性が高いということも意味すると考えるべきだろう。
【「4.コミュニティーと承認についての仮説」に移動】
男女の性差について1.性差の実例
男女の性差について2.共感とシステム化、その本質について
男女の性差について3.ホルモンと脳についての実例
男女の性差について4.コミュニティーと承認についての仮説
男女の性差について5.オタク論その他
3.ホルモンと脳についての実例(本章も本題とは直接関係ないので読み飛ばしても構わないです)
ここではホルモン分泌量と脳の構造から見た男女差の実例について挙げていく。なおここでの調査もアメリカ合衆国でのものと思われる。
【テストステロン】
48人の妊婦の胎内テストステロン値を測定し、その後生まれた子どもの発達を追跡して、テストステロンと言語発達、アイコンタクト、対人スキルとの関連を調べる調査をすると、その結果、言語スキルには性差がなかったが、子どもの性別と胎内テストステロン、社会性の発達には関連性があった。妊娠中期三か月目の羊水のテストステロン値が高いほど、健康な子どもが親と視線を合わせる頻度が少なかったのという。また胎内テストステロン値が高かった子どもは四歳の時点で社会的スキルが劣り、関心の範囲が狭かった。社会性については女児の優位を示す性差があり、当然ながら女児は胎内テストステロン値は低かったという。
男性の発達過程ではテストステロンの分泌量が特に高まる時期が3回あるという。最初は妊娠八週目から二十四週目の胎児期、次に生後五か月頃、そして最後が思春期である。この時期には脳がホルモン量の変化に非常に敏感になるために活性期と呼ばれている。そして性ホルモンは特に胎児期の脳に重大な影響を及ぼすと言われている。
妊娠したアカゲザルにテストステロンを注射すると生まれた子が遺伝的にメスの場合でも生殖器の形状はオスと同じになる。そしてオスと同じようにけんか遊びをするようになることが多いという。
かつては流産を繰り返すヒトの女性妊婦に流産防止目的で化学合成された女性ホモルンが処方されていた。このような母親から生まれた男の子は女性的と呼ばれる行動を取ることが多く、幼児期には人形をかわいがるなど他人との交流を演じる遊びをする傾向が見られる。
胎児期のテストステロン値が高いと子どもは心的回転テストの成績が良いという傾向がある。(高すぎる場合は逆に値が低い子よりも悪くなる)
ホルモン値が異常な状態で生まれてきた子どもはそのホルモン値に影響され、通常の性差とはズレた傾向を見せることもわかっている。そして胎児期ほど極端ではないが、出生後のホルモン注射でも哺乳類の性差傾向に影響をおよぼすこともわかっている。
IHH(突発性低ゴナドトロピン性性腺機能低下症)の状態で生まれた男の子は睾丸が非常に小さい。IHHは性ホルモンの産出と放出を調整する機能がうまく働かないことによっておこる。IHHの男性は空間把握能力が普通の男性より劣っているという。
女の子がCAH(先天性副腎過形成)を伴って生まれてくと、男性ホルモンの一種であるアンドロゲン値が高いために生殖器や性腺が男性化してしまう。この場合、普通の女の子より空間把握能力が高くなり、男の子用のおもちゃを好んだり、競争や体を使った遊びに参加することが多くなる。
オスのネズミは一般にメスより早く迷路を抜ける道を見つけ、過ちを行う回数も少ない。メスや去勢されたオスは迷路の中にある目印に頼ろうとする傾向が見られる。メスのネズミが出生時にテストステロンを注入されると通常のオスと同レベルの迷路脱出能力を見せ、目印に頼らなくなるという。
子どもを生んだことのないメスの哺乳類に雌性ホルモンのエストロゲンやプロゲステロンを注射する実験では赤ん坊に示す興味がより強くなったという。
テストステロンが低下した高齢男性に治療目的でテストステロンを投与すると、偽薬を与えた場合よりも積み木検査(積み木が回転した時にどうみえるかを予想)の成績が良い傾向が見られる。
異なる職種の男女8000人のテストステロン値を調べると、一番高いのは、俳優、フットボール選手、建設作業員、街をブラブラしている失業者だった。そしてブルーカラーの労働者はホワイトカラーよりもテストステロン値が高く、管理職はプログラマーより46%、営業職は教師より24%、建設作業員は弁護士より24%高かったという。そしてテストステロン値が最も低かったのは聖職者や農業従事者、学者だった。ちなみに女性弁護士全員のテストステロン値は女性アスリートや看護師、教師よりも高い結果が出た。
さまざまな年齢の女性から血液サンプルを採取し、ホルモンと職業との関係性を調べる調査では、大学生や専門職、技術職など、旺盛な意欲を持ち高い社会低地位についている女性においてテストステロンとその前駆体アンドロステンジオンの血中濃度が高いという結果が出た。これに対して主婦や事務職など、そして結婚や出産前に高度な専門職訓練を受けいていない女性の方が血中の男性ホルモン濃度が低かったという。
若い成人女性の体内での三種のホルモン量(テストステロン、アンドロステンジオン、エストロゲン(女性ホルモンの一種)の中で最も生理活性の強いエストラジール)を計測し、女性たちに自分と仲間の社会的ポジションをランク付けさせる調査では、これらの値の高い女性は自分に強い自信をもっていることがわかった。また男性ホルモン値の高い女性は自分が他の女性に人気があると考えていたが、仲間の女性たちはそう考えていなかった。(自己主張の強い女性は同性から嫌われやすい)
テストステロンは頑強さや支配、自己主張、耐久力、勝負に勝つことに関わるが、同時に攻撃的で半社会的な行動も引き起こしうると言われている。そして若い男性のテストステロン値は成長とともに着実に増加し、十代の終わりには女性の二十倍に達する。なお、テストステロンが大量に分泌されると筋力、持久力、空間認識能力が高まるが、その一方で免疫反応も低下させてしまう。
人間の男性におけるテストステロンと攻撃性の関係性を示す事例としては、ベトナム戦争から20年後に帰還兵を対象にして調査すると、テストステロン値が高い人ほど戦闘経験が多かったという件。さらに刑務所の規則にしたがう囚人より、暴力的で荒々しい囚人の方がテストステロン値が高く、短期で攻撃的、危険をものともしないタイプの囚人のテストステロン値が最も高かったという件が挙げられるだろう。
多くの動物研究ではテストステロンの投与でオスもメスもより攻撃的行動を取ることが示されており、テストステロンと攻撃性には何らかの関係があることがはっきりしている。テストステロンを注射したメスは群れの中での序列が上がり、メスのアカゲザルは攻撃性と序列があがる反面、育児行動は減少するという。
【左脳と右脳】
テストステロン濃度の高さは右脳や右半身の発達成を促す。そして女の子は男の子よりも早い段階で、言葉を聞くときに右脳よりも左脳の方が活発な活動を見せ、言語認知における左脳優位性を示すことがわかっている。ちなみに空間把握能力に関わってくるのは脳の右側である。
男性は右足の方が左足の方が大きく、右の睾丸より左側が大きい事が多いとする研究がいくつもある。女性では左足の方が右足より大きく、卵巣も右側より左側が大きく、乳房も左の方が平均的に大きいという。
被験者を男女関係なく左右のどちらが大きいかでグループ化すると、左側が大きいグループの方が言語テストの成績が良い。
指紋の隆線数ではほとんどの人が右手の方が多いが、左手の方が多い少数派は女性である確率が高い。
女性は左だけでなく右脳でも言語処理を行っている。ゆえに片側の脳を損傷しても言語障害を起こしにくい。男性の右脳の言語領域は女性ほど広くなく、左脳を損傷すると失語症になりやすいという。
被験者に一対の意味のない単語を読ませ、韻を踏んでいるかどうかを答えさせる、このとき女性の50%には左右の前頭葉のブローカ野(言語処理に関わる脳部位の1つ)の活性化が見られる。だが男性は左半球にしか活性化が見られない。
男性は左耳で聞いた単語よりも右耳で聞いた単語の方が正確に聞き取れる場合が女性より多い。(耳は反対側の脳により強い信号を送る)
手探りゲームでは男の子は左手で触った方が物の形を言い当てる確率が高い。女の子はどちらの手を使ってもよく答えられる。(左手は右脳に、右手は左脳に制御されている)
人間の場合、他人の表情を見ているときにスキャナーで見ると扁桃体が活発に働いていることがわかる。人間も動物もこの部分を失うと共感スキルを失う。出生後の雌のネズミの扁桃体(テストステロン受容体が多い)にテストステロンを注射するとオスのような行動を取る。
オスのネズミの扁桃体にはメスより大きい部分が存在するが去勢すると良四週間後にはメスと同程度の大きさにまで萎縮する。逆にメスにテストステロンを投与すると正常なオスと同程度まで膨らむ。
さらに脳の深い領域まで検証した事例を挙げていくと、PETスキャン(血液に放射性同位元素を注入し、その流れを機械に読み取らせる)にて、人の表情の写真をみせると、女性は左右両側の脳が活性化され、扁桃体の活動が盛んになるという。男性の場合では感情の知覚はたいてい左右どちらかの脳に局所化され、特に人の声を写真に対応させる必要があるなど作業が複雑になると、右前頭葉皮質に活動が表れる。
fMRI(機能的磁器共鳴画像装置)を使えば脳の構造だけでなく思考や認知、運動インパルスの影響が脳の領域を行き来する様子を可視化して見られる。そのfMRIで24人の脳をスキャンしたと実験では情緒に訴えかける画像を処理するときに経由するネットワークが男女で異なっていた。女性は非常に情緒的なイメージをはじめて見た時に左脳の広範なネットワークが活性化し、三週間たってもそのイメージをよく覚えていた。そして女性は情緒的な経験を男性より強力に受け止め、左脳特に扁桃体を使ってこれを処理していた。なお男性はこれとはまったく反対に強い情緒刺激を右扁桃体が関わるネットワークで処理していたという。ちなみに女性は経験した感情を何らかの内的言語で処理し評価しているのではと研究者は推察しているという。対して男性では、感情のエンコードは右扁桃体で最も自動的に行われると考えられている。
fMRIを使った実験で被験者に女優の顔写真を見せ感情を判定させると、嬉しそうな表情は男性も女性もおなじように区別できた、だが悲しそうな顔の写真になると男性は70%の頻度でしか正しく識別できなかった。そして女性は90%正しかった。なおその時に女性は大脳辺縁系のなかで比較的新しく進化した部分である帯状回(他者の苦痛に対する共感反応の個体差に関わると思われる部分)に活発な活動が見られた。一方男性は概して大脳辺縁系の中でも古い部分が多く活動していたという。
女性の脳では特に言語作用を司る後側頭皮質で受容体の密度が男性のそれより11%高い
【オキシトシン】
女性ホルモンの一種であるオキシトシンは女性の月経周期や対人関係の重要なタイミングで分泌され、他のストレス反応を抑制したり、出産後の母親をリラックスさせる効果がある。それは分娩時や授乳時、子どもの世話をするとき、オーガズム時にも分泌され、特有の親密感やリラックス感を引き起こす。オキシトシンはストレス時に分泌される内因性オピオイド(モルヒネに似た作用を持つ物質)と相まって鎮静・鎮痛効果をもたらし、何か問題が生じると本能的に他者との接触を求める女性を落ち着かせ、即時のごほうびを与えることによって母親としての活動を継続させる効果があるという。そして最近の研究では他者の表情から感情を読み取るのを助けたり、他者への信頼を高める効果もあるとされる。
被験者の男性の半数にオキシトシンを鼻から吸入させ、偽薬を吸入させたグループと比較すると、オキシトシン吸入のグループの方が共感性のある側面が高めることが示された。具体的には人の顔写真から読み取りにくい微妙な感情や意図を推測する力を増す作用があったのである。
被験者に投資ゲームを行わせると、オキシトシンを投与したグループの男性は他のチーム参加者を信頼する傾向が強く、偽薬グループの二倍に当たる金額を投資した。つまり相手を警戒する防衛反応を抑える作用を持つことが示されたということである。なお男性の場合、オキシトシンは対人関係における警戒心を弱める働きはあるが、一人でいるときにリラックスするような作用は見られなかった。周囲に他人がいるときに不安感を沈める社会的触媒としての働きが強いと推測されている。
自閉症の子どもは健常児より、出生前のオキシトシンとその前駆体の値が低いことがいくつかの研究でわかっている。
プロラクチンというホルモンは男性と女性の両方に生成されるが、女性の場合、母乳の分泌を促進し、授乳や養育、保護などの行動によって体内を循環するという。そしてオキシトシンもまた授乳時などに大量に分泌される。この「満ち足りた幸福感をもたらす秘薬」と呼ばれるそれは母乳そのものにも含まれていると考えられており、赤ん坊は母親から栄養を分けてもらうだけでなく、身体的な接触の楽しみと麻薬的な快楽を得ていることになる。なお授乳中は鎮痛作用と快楽誘発作用のあるオキシトシンが数時間おきに母親の脳を満たすが、仕事に戻るとその供給が途切れてしまう。そして子どもと離れていることが不安やパニックの原因になることさえある。こうした母親の反応をドラッグの禁断症状と似たものだという研究者もいる。
動物の事例では、フタオビチドリのメスは巣に近づいた天敵を引き離すため、重症を負ったかのような頼りない足取りでおとりになろうとする。そのひなを守ろうとすることで母鳥のプロラクチンレベルはさらに上昇するという。
哺乳類の場合、妊娠や授乳、赤ん坊の世話に伴うホルモンの大量分泌によってメスの脳内の神経回路が組み替えられ、学習能力や記憶力も向上されることがわかっている。端的に言えば、哺乳類は母親になることで賢くなるのである。世間では妊娠して母親になると頭がぼんやりすると言われる。(オキシトシンの鎮静作用)だが母親が分泌するホルモンには付随的なメリットもあり、たしかにある種の問題解決能力が向上するのである。(特に子どもが危険にさらされた時)
メスのネズミに迷路の中に隠した餌を探させると、母ネズミは子どもの居ないネズミよりもよい成績を出す、さらに妊娠したことがあるか、あるいは赤ん坊のネズミをあてがわれ若いメスネズミの方が、それ以外のメスネズミよりもうまく餌を見つけるれる。たとえ妊娠したことがなくてもそばに子どもがいるというだけでオキシトシンが分泌され、神経回路が組み替えられたことによって空間記憶が向上したのである。なおこうして身についた空間認識スキルはその後も衰えず、メスは以前よりうまく迷路内の餌を探せるようになる。
哺乳類と人間を対象にした研究によって、哺乳類の母親の脳に共通する神経回路存在が明らかになっている。脳の中央深くにある視床下部の一部、内側視索前野MPOA、そしてそれと帯状皮質との結合部は気分や感情の制御に関わっており、この経路全体はオキシトシンとプロラクチンの刺激にきわめて敏感である。さらにエストロゲンとプロラクチンにもこれらの領域のニューロンを拡張させ脳内の他の領域との結合を増やし、母親に問題解決能力を与えたり、報酬感をもたらす作用がある。母親になることで体力の消耗や動き回れる自由が成約されるという大きな代償をともなうが、神経科学物質によって養育行動にもたらせる報酬感は、そうした代償を埋め合わせるための進化なのかもしれないという考え方をする研究者もいる。
母ネズミにコカインか子ネズミかの選択肢を与えると、生まれたばかりの子ネズミを選ぶ。ちなみに母性行動を司る神経回路、特にMPOAをコカインが阻害することが突き止められている。この種のドラッグや外科手術によって母親のMPOAが損傷すると、母性行動がまったく消失してしまうのである。
母親に自分の子どもの写真や知り合いの子どもの写真をみせfMRIで反応を調査すると、自分の子どもの時と知り合いの子どものときでは反応の仕方に明らかな違いがあった。なお、母性的感情によって活性化する領域と恋愛感情によって活性化する領域はかなりの部分が重なっていたという。ただし母性愛に固有なルートもいくつかあり、それは脳水道周囲灰白質PAGと呼ばれる部分で母親が自分の子どもの写真をみているときにだけ活性化されたという。
男性においては言語活動を行うのはほぼ脳の左側だけであるが、女性は左右両方の脳をつかって言語を操る。これは一般的な女性が男性よりも脳梁や全交連が大きいことも影響している可能性がある。脳梁や全交連とは左右の脳をつなぐ部分であり、これが大きいほど左右の脳は連携が取りやすくなるのである。ちなみに男性同性愛者は一般的な男性よりも全交連が大きいことが多く、女性らしさに関わる何らかの部分に影響していると考えるしか無い。たとえば他者への共感をその相手に示すためにはそれなりの言語の能力が必要であり、それは言ってみれば共感のための言語活動である。それゆえ女性は感情と言葉を密接につないでおり、脳内の言語活動に使う部分が男性のそれよりも多くなるのではと考えられるのである。そしてそれは逆に言えば女性は感情と言語を切り離すのがそれだけ苦手である可能性が高いということも意味すると考えるべきだろう。
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テーマ : ジェンダー・セクシュアリティ - ジャンル : 心と身体